最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品

2/28/2010

国際交流基金のフィルム・コレクション

小栗康平『泥の河』

昨日から、アテネ・フランセ文化センターで、『To each his own Japanese Cinema 世界のなかの日本映画』と題して、国際交流基金が過去数十年に渡って蒐集してきた日本映画の字幕入りプリントを使った上映プログラムを開催中だ。

昨年の事業仕分けで、外務省の天下り機関である国際交流基金も当然ながら厳しい批判に晒されている。そのこと自体は正しいこと、なされなければならないことだと思う。このフィルムのコレクションにしても、一本あたり100万円くらいは実費だけでかかるはずなのに、決して活用されているとは言いがたいのだ。「税金の無駄」と言われてもしょうがない。

交流基金といえば、僕自身海外の映画祭に招待されるとき、その招聘費用が交流基金の現地事務所から助成されていることも少なくない。「世話になってるのに恩知らず」と思われるかも知れないが、しかし別に外務省の天下りのお世話になってるわけじゃない、あくまで公金、国民の税金だ。日本文化を海外に紹介することは大事な事業であり、僕の仕事がその対象になって、だから僕も日本への理解を世界で深めることに貢献しなければならないだけだ。

北野武『ソナチネ』

なのに現地事務所の責任者などに映画祭のパーティなどで会うと、いかにも我々の金で来させてやったんだみたいな態度なのはまだいい。「で、あなたはどんな映画を作ったんですか」と真顔で言われるとさすがに呆れるし、誰に紹介してくれるわけでもないで、いったいなんのための現地事務所なのかと正直、思う。彼らは自分たちの仕事が分かってるんだろうか? なんのために招聘費用を出しているのか? せっかく金を出してるんだから有効活用してくれなきゃこっちが困るし、そうやって招聘した人間を紹介できるだけの文化関係の人脈も持ってないでなんの国際交流事業なのか?それも彼らがただ真面目に仕事をすればいいだけのことではないか。

あるいは、そういう人脈を作れない人間が、ただ天下りというだけで交流基金の要職にあるのだとしたら、それこそ税金の無駄遣いだ。

アテネフランセの上映会で用いられている英語字幕入りのプリントも、その存在自体が無駄なわけではないはずだ。ただそれを有効に活用できていないのが問題なのだ。

しかも現地事務所によっては、所蔵している映画でも中身がまあ、なんというか…外務省が考てるような日本のイメージに反するとでも言いましょうか…そういう作品を出すことは頑に拒否したりするという話も、よく海外の映画祭プログラマーなどから聞かされる。

そんなことやればやるほど、日本のイメージが却って悪くなるだけなのに。なかには主催者からマスコミでキャンペーンを張るぞと脅されて、やっとしぶしぶ作品を出したりした事例もあるのだから、呆れてものが言えない。

長谷川和彦『青春の殺人者』

ただここで我々も注意しなければならない。叩かれるべきは国際交流基金という組織をダメにしているそういう天下りであって、交流基金の事業そのものではない。

実際、所蔵作品リストすら交流基金では公開していない。問い合わせがあって所蔵していたら「では出します」という流れにやっとなるという一方通行でしかプログラムが作れないなら、有効活用なんてしようがない。交流基金のホームページで全所蔵作品/貸し出し可能作品が日本語と英語の両方ですぐにチェックできるくらいでなければ−−そういう初歩的なディスクロージャーですら、出来てないのがこの国の「おおやけ」なのだろうか?

リストが公表されないのは映画会社、つまり映画の権利主の都合もあってのことなのだろうが、だったらそこも含めて制度を整備しなければならないはず(著作権をどうするかも含め)だし、それができるのは政治の責任だろう。民主党政権に期待されている「政治主導」とは、そういうことでもあるはずだ。

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