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9/20/2013

「聖徳太子」というフィクションと、日本という国家の二重性


かつてはお札にまでなっていた偉人「聖徳太子」が実在したのかどうかは、日本の古代史、日本という国の成立過程について、かなり重要な論争だったりする。


…というか、厩戸皇子という用明天皇の皇子がいた(伝574〜伝622)ことはとりあえず間違いなさそうだが、それが推古天皇の皇太子となり、かつ摂政として日本国家の基礎を築いたという「神話」は、たぶんに後世の作りごとであろう、というのが実は、今ではかなり定説となりつつある。

聖徳太子の伝説のかなりの部分が初めて登場し、教科書で習う太子の偉業の底本になっているのが『日本書紀』なわけだが、その記述がかなり不自然なのだ。

だいたい推古帝の時代に皇太子制度が既にあったなら、その後も天皇が亡くなる度に後継者が決まっていないが故のイザコザが絶えなかった歴史はおかしい。天智天皇の死後に息子と弟が皇位を争った血みどろの壬申の乱なんて内戦は、起こっていないはずだ。

その『日本書紀』の記述に従ってみたって、宮廷の政治上の重要な決定や儀式の記述の多くになぜか皇太子、つまり聖徳太子の列席が言及されていない。たとえば我々が学校で習ったような冠位十二階の制定や、遣隋使の派遣も、『日本書紀』には太子と関連する記述がなく(推古天皇が、と書いてある)、遣隋使に至っては随からの返礼の使者を迎える儀式にも太子の列席の言及がない。

「日出る処の天子」云々を聖徳太子と結びつけるのは後世の強引な解釈であり、その国書が随の皇帝・煬帝を怒らせたとかの痛快にみえる伝説も、なんの史料的な根拠もない。

それにそれも含めて太子の活躍の根拠と一応は言えそうな、推古天皇の摂政であった、というのも「摂政」という文字列はあるが漢文の読み方の規則をかなりねじ曲げないと(そうそう、『日本書紀』は中国語で書かれた本だ)「摂政」という役職にならないし、なにより不自然なのは、都があった飛鳥から20~30Km以上離れた斑鳩宮が太子の居所だったこと、今の法隆寺の東院(夢殿など)がその跡地とされるが、政治の実権を司るにはずいぶんと遠い。

現在の法隆寺金堂・五重塔は世界最古の木造建築だが8世紀初頭の再建
もうひとつ聖徳太子関連の史料としてあるのはその法隆寺に遺された太子の遺物などなど、とされているものの、法隆寺は西暦670年にいったん全焼して後、8世紀初頭あたりに再建されているわけで、それでも現存する世界最古の木造建築ではあり、美術的な価値は極めて高いものの、推古帝時代から100年くらい後のものであり、全焼しているのにそこに太子発願の仏像や太子の遺品とされるものが残っているのは、単純におかしい。

法隆寺金堂・釈迦三尊 伝・鞍作止利 作 (国宝)
北魏様式を踏襲したアルカイック・スマイルで有名

だから現存の釈迦三尊が、太子が寵愛した渡来人の仏師.鞍作止利の作であるというのにもいささか無理はある。大火災で破損もせず溶けてもおらずというのも…まあ確かに北魏の時代の仏像様式を踏襲しているので、様式的には法隆寺再建前の作のはず、相当に古いものではあるが。

また7世紀末から8世紀初頭に再建された法隆寺も、建築様式はその時代のもの(白鳳時代)とはかなり異なる。



現存する類例が朝鮮半島も含めてないために詳細な確認は不可能だが、絵画などを参照する限り、6〜7世紀の建築様式のまま再建されている可能性が高い。

一度は焼失していることは考古学的発見からも裏付けられているので確かなのだが、焼失したそのままの様式や設計で再建するのはかなり珍しいことだ。

厩戸皇子という人物は、なにか宗教的に特殊な存在であったのかも知れないが、そこも含めて謎のままだ。なにしろ日本の古代史には史料が圧倒的に不足している−−『古事記』『日本書紀』以前の歴史資料と呼べるものがほとんどない、その習慣がなく、わずかに朝貢外交を行った際の中国側の記録しかないので。

なお過去の様式・設計をそのまま再現して再築する信仰施設の類例が、日本ではもう一件だけある。 
20年ごとにそっくりそのまま建て直される(式年遷宮)、天皇家の粗先神・アマテラスオオミカミを祀る伊勢神宮だ。

僕は歴史学者じゃないので太子実在説、非実在説の詳細についてとやかく書きはしないが(ただ普通に『日本書紀』もそこから派生した神話も、「かなり噓っぽい」とは思う)、むしろ興味深いのはこの聖徳太子という伝説が意味するところだ。

聖徳太子非実在説の史料的根拠については、大山誠一・中部大学教授の『「聖徳太子」の誕生』(吉川弘文館)の前半がよくまとまってるので、ご参考に
http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b33669.html

たとえば遣隋使を送りながら、つまり朝貢しておきながら、そこで随皇帝と対等に振る舞おうとしたという伝説は、江戸時代の国学あたりが起源で、明治以降に学校教育を利用して広められたものだろう。

再建された法隆寺や、大阪の四天王寺など、仏教における聖徳太子信仰は、『日本書紀』の編纂以来、だいたい奈良時代以降、江戸時代まで延々と続いて来たわけだが、開国、明治維新で急速な近代化=西洋的国民国家としての道を選んだ明治の「日本」は、アジアの国でなく「世界のなかの日本」という西洋化された架空の自己イメージ作りのなかで、古代の日本に希代の聖人君子がいて、中国の巨大帝国とも対等に渡り合ったというのだと、どうしても言いたかったのだろう。

平安朝末期、遣唐使・吉備真備の大冒険をコミカルに描いた吉備大臣入唐絵巻
こんな船で日本海や東シナ海を渡ったわけで、難破した船も多かった。
史実はもちろん違う。

遣隋使に続けて遣唐使と、外交的に中国の朝貢国(つまり形式上は属国)であり続けたのが古代の日本であり、その唐をお手本にした文明的な律令国家を目指し、政治制度から首都の都市設計から儒教や仏教に道教の神仙思想、後には陰陽五行に至るまで、なんでも唐をお手本にした8世紀に、司馬遷の『史記』に始まる中華帝国の正史記録の伝統に倣ってまず『古事記』、立て続けに『日本書紀』が編纂され、その『日本書紀』で初めて史料として聖徳太子が登場する。

近代の日本はその聖人君子のスーパーヒーローを利用して、日本が最初から中華帝国と対等の独立国であった、一貫して中華帝国の影響下にあり朝貢国(属国、衛星国)であり続けた朝鮮半島とは違うし、ひいては中国よりも凄い国なのだ、という差異化を計りたかったように見える。

だがこれはどだい無理な、事実と矛盾した話である。日本も海で離れていたので断続的ではあるが、朝貢という形式で中国と国交を結んで来た東アジア文明圏の国なのだから。

だいたい朝貢という風習の意味を、現代の日本人はあまりよく理解していないようだ。確かに臣下の礼をとるとは一見屈辱的だが、それは中華帝国ならその内部の形式に過ぎないことは以前このブログの尖閣諸島の話でも触れた通りだ。 
極端な話、古代世界ではお互いに臣下の礼をとりあった巨大帝国の例もある。 
朝鮮半島のように陸続きであったり、19世紀以降の航海術があるならともかく、海を渡らなければならない日本を、中華帝国が本格的に属国化しようとなんて思うはずもないのだ。

それでも僕たちが習っている歴史観では、遣隋使や遣唐使が当時の大先進国であった中国への朝貢の使者であったことはぼやかされ、後代では室町将軍の足利義満が明朝相手に朝貢外交を行ったことが、それが「日本国王」名義であったことも含め、国賊として批判的に描かれている

足利義満(京都・等待院蔵)
いやむしろ、中国の君主の地位の序階で天皇より下の「王」を名乗り、天皇名義でなく朝貢の形式をとった義満は、天皇と明の皇帝の双方の権威をうまく守った知恵者なのだが。 
これは中国の文化や国際的な外交儀礼に通じた義満のブレーン、室町将軍家が帰依した臨済宗大本山・相国寺の大国師・夢窓疎石の入れ知恵であったらしい。 
やはり中国で禅宗を学んだ大禅師が義満に授けた外交の秘訣は「別無工夫(べつにくふうなし)」だったのだが、実際にはいろいろ工夫はあったわけだ。

足利将軍家は後醍醐天皇が分裂させた天皇家の、後醍醐天皇と敵対した北朝側であり、戦前の皇国史観は逆賊とみなしたわけだが、もしかしてこれだって、足利尊氏と後醍醐天皇の対立の問題というより、義満が明朝と朝貢外交を行ったことこそが逆賊であり、だから後醍醐天皇が、というのが南朝正統論の本当の動機なのかも知れない。

後醍醐天皇(清浄光寺)
なにせ歴史的には、後醍醐天皇の南朝は途絶え、その後の天皇家は今に至るまで北朝の系譜だ。「万世一系」の天皇の国を主張するのなら、北朝を正統とみなした方が楽だったはずではないか。

たとえば南朝をひたすら正当化して楠木正成を大英雄に持ち上げた皇国史観は、戦後教育で排除されたが、それでもやはり遣唐使が朝貢の使者であったことはぼやかされている。

奈良時代の日本が唐風の文化を極めて忠実に学び模倣し、唐を通じて西方のペルシャの文物まで輸入していたことはさすがに隠せないものの、そういえば教科書で写真が出ている正倉院御物でも、なぜか圧倒的多数を占める唐からの輸入品よりも、唐よりさらに西の文化を匂わせるものに紹介の重点が置かれていた。

正倉院御物・白瑠璃碗
イラン国立博物館所蔵の、ペルシャ時代のガラス碗
つまり決して唐、つまり中国だけではなく、シルクロードのいろいろな文化を受け入れながら、日本は独自の文化を発展させたのだ、というイメージだ。

正倉院御物・螺鈿紫檀五弦琵琶
五弦の琵琶は本来中央アジアのもの。駱駝の文様にも注目
いや確かに唐だけではない。だがそれらはいずれも唐経由であり、しかも正倉院御物が蒐集された時代、唐では西方ブームが起こっている。天平の日本の朝廷は、その西方ブームすら喜んで模倣したのだ。

*正倉院の主要な御物の画像は、宮内庁ホームページで見られます。
 http://shosoin.kunaicho.go.jp/shosoinPublic/doc/about_shosoin.html
正倉院御物・鳥家立女図屏風
聖武天皇が愛用したと伝えられる。やはり西方テイスト

唐の衰退が始まると、膨大な国費を要し航海上のリスクがあまりにも大きかった遣唐使は、やがて派遣されなくなる。

そんな平安朝については、仮名文字の発明や「やまとえ」の発展など、「日本独自の文化」が教科書ではやたらと強調されていた。確かに唐風の絵画から独自の発展を遂げた絵巻物表現や、『源氏物語』などの仮名混じり文で、日本語で書かれた文学など、見るべきものは多い。

源氏物語絵巻(国宝)より、柏木
伴大納言絵詞(国宝)・応天門炎上に集まった群衆・平安時代末期の常磐光長の作
だが、たとえば、ここにあげた「日本独自の文化」である平安朝の絵巻美術は、どれも平安時代末期の作品である。

貴族の荘園所有により律令制度がなし崩しになって来たとは言え、平安朝の国家体制は相変わらず唐をお手本にした律令制であり、その官位の制度が形式とは言え明治時代初期まで続いていたことは、曖昧に済まされている。

だいたい仮名の発明でも、仮名は主に女性の用いる非公式文字で、公用の記録言語は相変わらず漢字・漢文であり、『御堂関白記』や『台記』などの貴族の日記も、漢文で書かれている。

いやそもそも、平安京だって立派に唐風の都である。


今の天皇は、誕生日会見で一度、自分が朝鮮の血も引いていることの例として、平安京を拓いた桓武天皇が朝鮮の血を引いていることに言及している。
  
「私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると、続日本紀に記されていることに,韓国とのゆかりを感じています」
http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/kaiken/kaiken-h13e.html 

平安朝も決して、そこまで大陸の影響を排した「日本独自の文化」ではなかった。東アジア文明圏の真珠、最高のいいとこ取りとして産まれたのが日本である。

だいたい平安京の宗教・精神的的な支柱となり、都の霊的な守護を担ったのは、最澄の天台宗比叡山延暦寺派と、空海の真言宗、教王護国寺(東寺)の二大平安仏教…っていうのもこれまた日本の宗教ではない、まさに唐代における最先端の、当時としては科学的に体系化された理論を持った新しい仏教、密教を輸入したものである。

救王護国寺(東寺)
逆に平安時代だってコテコテに唐風、中国風だ

この首都が、陰陽五行を始め、恐らくは空海が持ち込んだのであろう、唐風の最先端の方位学で設計された霊的な都市であることも、教科書には書いていない。確かに今からみれば中国風、アジア土着の迷信っぽいかも知れないが、当時最先端の「科学」だった。

国宝・東寺両界曼荼羅(胎蔵界) 
曼荼羅に図式化される世界全体を網羅し理論化した宇宙観は、当時の東アジア世界では画期的だった。密教は当時の最先端科学だったのだ。 
同・金剛界

平安時代の末期に実権を握った平清盛が、もともとは西国の海賊平定にあたっていた経験もあり、積極的な大陸との交易と、宋との正式国交(つまり中華文化圏の伝統では、宋に朝貢することになる)を模索し、今の神戸市あたりの福原に大きな港を造営し、そこへの遷都も考えたこともあまり言及されないが、清盛も今我々が知っている日本史のなかでなんとなく悪者である…

…のも、よく見れば、普通すぐに推論されるように、源平合戦で平家を滅ぼした源氏の鎌倉幕府によって、清盛が悪者にされたのではないし、その後の武家の幕府がいずれも源氏の系統とされる将軍家だから、平家が悪者になったのでもない。たとえば『平家物語』には「おごる平家は久しからず」の教訓は込められているものの、そこの清盛は、決して悪役ではない。

むしろ明治以降の皇国史観によって作られた悪役イメージだ。

平家が平安末期の動乱を治めることで権力を掌握したので、その混乱も批判的に見せるため、皇国史観に基づいて院政期の上皇、たとえば白河や後白河も歴史上の化け物イメージが流布しただろう。だがこれも、歴史観としてかなり苦しい、無理がある。

上皇、法王たちは皆、元は天皇である。それが政治的実権を行使するために天皇位を退いたから「世の中が乱れた」ということだけでは、万世一系の高貴な血が悪辣な化け物政治家に化けるのは、あまりに強引だ。これも例えば後白河院が(かなりの新し物好きだったので)清盛の遷都計画はともかく、中国との交易重視政策には大いに乗り気だったことと関係がありそうだ。

後白河法王座像(京都・長講院)
だいたい、「世の中が乱れた」もなにも、平城京どころかその前の難波宮や長岡京の時代から、平安朝を通じて、平安遷都を実施した桓武天皇のような希有な例外を除けば、政治的な実権を握っていたのはほとんどが、我がご先祖(?)、日本史上最大の悪辣一族・藤原氏である。

むしろ律令国家の成立期から、ここだけは中国ではなく日本オリジナルで、天皇位そのものには政治的な実権がないように制度設計がなされている

日本は日本という国家が成立したその段階から、象徴天皇制を採用していたのだ。これもあんまり学校では習わず、律令国家=天皇親政っぽく見えるが、制度の実態は違う。

天皇家がそれなりに政治を司ったのは、大化の改新を成し遂げた中大兄皇子つまり天智天皇と、その弟で、壬申の乱で天智天皇の息子を滅ぼして皇位についた天武天皇、その後は桓武帝、そして藤原氏の人材不足も重なり、天皇を退位することで実権を握った白河院以降の院政くらいなものだ。逆に退位しなければ政治的な実権を握れなかったからでもある。

だいたい天智天皇だって、在位したのは晩年のほんの数年、ほとんどが皇太子として政治を担って来た人物である。皇太子ならよくて元天皇なら世が乱れる、というのも理屈に合わない。

これは「王政復古」を旗印に、名目上は天皇親政を目指した明治維新の正当化のための歪曲である。

むろん実際には、その「神聖にして侵すべからず」な天皇主権の明治憲法でさえ、天皇機関説が運用上の定説だった。

平城遷都の直前には、皇族でありながら藤原氏と拮抗する権勢を持ちかけていた天武天皇の孫、長屋王が、藤原不比等と聖武天皇の后・光明皇后の謀略により、滅ぼされている。

血統だけでは国家は統治出来ない、政治には権謀術数も必要だし、それ以前に法と制度を維持する冷徹な知性がなければ統治は難しい、それゆえの知恵を日本という国はその成立期から組み込んでたのだ。

一方で天皇には元来、それ以外の役割が付与されて来ており、そのためには政治的な実権がない方がいいとすら言えるのだが、これは後で触れる。

それにしても、なんだか我々が習って来た日本史や、それ以前の皇国史観は、ちょっと斜に構えてみると万世一系とされる天皇の統治の正当化以上に、「日本は決して中国や大陸の影響化にあった国ではない」「中華帝国と朝貢関係になったり、中国に憧れるのは歴史上の一部の例外だけで、それはけしからん悪人がやったことだ」とばかり言いたがっているように見える

なにしろ遣隋使・遣唐使はさすがにその影響の大きさは無視できないから教えているにせよ、遣隋使は聖徳太子を使った捏造であたかも倭が随を対等に扱ったかのように教え、遣唐使もそれが朝貢使節であったことは誤摩化している。

遣隋使には返礼の使節も来ている記述が『日本書紀』にあるのに、倭の使節 がそんなに無礼に振る舞ったわけがない。 
ただし『随志』には、煬帝が日本の使者の説明に、そんな無茶苦茶な国なのかと「呆れた」という記述はある。使者による日本の天皇の政治執務を説明されて、「無茶苦茶だ」と思ったのである。 
それは太陽が昇ったら大王は執務をやめる(統治を太陽に任せる)というのだから驚くのは当たり前。 

そういえば大化の改新だって、歴史の教科書で強調されるのは、渡来人系だった豪族の蘇我氏が実権を握っていたのを、中大兄皇子とその服臣、日本土着の、自然神祭祀が主な役割だった中臣氏の中臣鎌足が、協力して渡来人の(つまり朝鮮半島の系譜の)蘇我蝦夷・蘇我入鹿父子を滅ぼしたことであって、中大兄皇子が豪族合議体制の大和朝廷の大改革を行い、中国風の律令制度を作ろうとしたことはあまり強調されない。

ちなみに偶然とはいえ、蝦夷って名前は凄い。渡来人の系譜で、その名が「外国人」という意味だもの。そりゃ大化の改新が愛国排外神話に利用されるわけだ。

だから学校で習う日本史の授業はもの凄く分かりにくくなるのかも知れない。

大化の改新が中国の政治制度や思想を輸入し、天子である皇帝を頂点に置く官僚制統治に倣った、中国風の政治体制を作ろうとした、その頂点に「天皇」を象徴として置いた、それが日本において初めて法と制度に基づく政治が行おうとした試みであったと、なぜかはっきり言ってくれないので、よく意味が分からないのである

よほど日本という国家の成立が、中国式の法と制度と哲学に従ってなされたことを、教えたくないのだろうか?

それまで多分に土俗的なアニミスムの国だった、古墳時代~大和朝廷の倭が、今我々が考えているような「日本」という国に生まれ変わる基礎、「日本」という国家の成立は、徹頭徹尾中国からの影響であり、中国の政治制度や思想・哲学こそが国家としての「日本」の原点であったこと、そして日本が常に大陸をより進んだ文明とみなし学びつつ国を発展させて来たことを、どうしても認めたくない、というようにしか見えない歴史観だ。

だがそれは歴史の説明としてやはり無理がある、不自然なのだ。なんといっても、現実とあまりにも違う。

だが無理でもなんでもいのだろう、明治以降に「いや日本は中国の属国じゃない、中国の影響なんて」と言いたい歴史観の出発点に置かれたのが、聖徳太子伝説であり、だから例の「日出る処の天子」の一件が(その史料上の根拠がないにも関わらず)クロースアップされるのだろう。

しかし聖徳太子伝説を「昔から日本は独立国」神話の起点に置くことにこそ、実はもの凄く無理がある。無理があり過ぎ、あまりに自己矛盾している。

なにより厄介なのは、聖徳太子が『日本書紀』によって創造されたフィクションだったかどうか以上に、『日本書紀』が伝える聖徳太子像それ自体であり、また逆にそこに書かれた聖徳太子の姿こそが、どうも推古天皇時代の史実ではなく、後から作られた伝説ではないかと疑わせる最大の理由でもある。

…というのも『日本書紀』の聖徳太子とは、飛鳥に都があった7世紀初頭とは思えないほどに、中国風の聖人君子なのである

まず延々と続いて来た太子信仰とはもちろん日本最古の本格的な寺院である四天王寺を建立(実は史実は異なるかも知れない。元は渡来系氏族の難波吉士氏の氏寺であった可能性もある)したことなど、仏教を最初に広めた最大功労者としてのそれである。

しかもほぼ確実な史実としての実在の厩戸皇子は、渡来人である蘇我氏の娘の子、当時の最大実力者である蘇我馬子の孫であり、「日本書紀」で書かれる聖徳太子の最初の功績は、中臣氏同様にやはり土着系の祭祀一族で、仏教の導入に賛成しなかった物部守屋を、蘇我馬子と共に滅ぼしたことだ。

つまりどうみても、むしろ海外文化大好き、進んだ外国はどんどん真似しよう派、である。

ちなみに『日本書紀』に基づく通説では四天王寺は、蘇我氏と厩戸皇子が滅ぼした物部守屋の屋敷跡に、厩戸皇子がこの戦を、額に四天王の像を頂いた冠をつけて戦った、そのご加護の御礼に建てたものとされ、 今も境内には、守屋の霊魂を祀った廟もある。 
今日でも四天王寺は「日本仏教発祥の地」であり、太子信仰の一大中心だ。と同時に、滅ぼした物部氏の霊魂の鎮撫の意味合いは、仏教が既にこの段階で日本独自の御霊信仰と結びついていたことを示す

さらに太子が天才的な聖人君子であったことの実例として挙げられているのは、たとえば推古天皇に法華経などの大陸から新たにもたらされたばかりの仏教の教典を、優れた解釈で解説したこと、そして例の十七条の憲法である。

この十七条の憲法、今でいう憲法と違い、役人の勤務心得みたいな内容で、「和をもって尊しとなす」ばかりが強調されるのが近代以降、これは「倭」を「和」にひっかけて和風で日本風なんだと、元来の日本人好みの語呂合わせでイメージを作ってるのだろうが(…って語源的には、元は「倭」で「和」は当て字)、内容はコテコテに儒教そのもの、そこにちょっとだけ仏教保護が加わっている。

だいたい、どうも聖徳太子の伝説が嘘くさいと僕が思う最大の理由がこの十七条の憲法で、まだ中国に倣った官僚制度が成立していないはずの推古朝に官僚の勤務心得を書くのもおかしな話だし、それ以上にこんなにコテコテに儒教な憲法は当時の価値観として奇妙なのだ。


原文、書き下し文、現代語訳はこちら。いかに儒教ワールドな心得であるか、とくとご確認下さい。


『日本書紀』より前に書かれている『古事記』でさえ、太子が活躍したとされる時代からすればずいぶん後代の書物だが、その歴史観・政治観や天皇統治の正当化は、まったく儒教的ではない。むしろ儒教的な価値観で読もうとすると意味不明になる話がいっぱいある。

なのになぜ、それより100年前の聖徳太子の提示したはずの国家観が、こうも書かれた当時として真新しい、というか100年前なら思いっきり時代錯誤なのかが分からない。不自然過ぎるのだ。

『古事記』は今風の感覚でいえばとても人間臭く、神々も古代の天皇たちもおよそ儒教的な聖人君子ではない。

『日本書紀』における同じエピソードの記述と比較しても、『古事記』での天岩戸伝説なんてずいぶん野卑で豪快で、土俗神のバイタリティに満ちあふれた、感情と欲望満載の姉弟喧嘩→お姉さんヒステリーのえらく人間くさい話だし、やはり暴れ者で女たらしなヤマトタケルノミコトは父の天皇に疎まれて、それでも愛する父に気に入られたくて東征の大冒険、それがかわいそうに途中で死んでしまうラブリーな物語が、『日本書紀』ではそういうわけにもいかず武勇に優れて道徳的な英雄、儒教が理想とする君子像に近づけてある。

いや儒教的な価値観だといちばんわけがわからないのはもちろん、いじめられっ子の末っ子だった心やさしい大国主命が地道な努力で出雲を中心に国をまとめた…まではまだいいが、その国をあっけなく、天照大神の子孫に譲り渡す、国ゆずりの神話もある。

こういう儒教ベースの君主制の忠孝論理の合理主義では計り知れない摩訶不思議さが、今となっては『古事記』の人間くさい、世の中杓子定規じゃ行きませんよ的な魅力なのだが、それでは唐を中心に急速に発展していた当時の東アジアではあまりにも泥臭い、田舎臭いので、『日本書紀』が創造した聖徳太子は、推古朝時代ではなく律令国家成立期、『日本書紀』が書かれた時代における当時の価値観で極めて合理的な…ということは思いっきり中国風な聖人君子なのである。

その聖徳太子を無理矢理に「いや日本は昔から完全な独立国で、中国の影響なんてそんなには」と言い張るための出発点に、近代日本の歴史観は置こうとしたのである。あまりに矛盾し過ぎている。

だって変でしょう?

仏教を日本に普及させ儒教に基づいた政府の在り方を説き…というのはもちろん、中国的な国家体制、当時の感覚では近代国家に脱皮しようとしていた時代に書かれた、極めて中華風に理想化された聖人君子像だ。

中国的であることこそが「日本はこんなに立派な国だ」と言おうとした『日本書紀』の作家や、それを書かせた当時の朝廷の最大の目標だった。近代日本の国家主義が言いたいことと、まさに真逆の目的で創造されたのが『日本書紀』に始まる聖徳太子の伝説なのだ。

さらに厄介な問題がある。

近代日本が「決してそんな中国の影響下の国ではない」と言おうとするのなら、まず律令国家の成立期、大化の改新の後に、中大兄皇子が唐と新羅連合軍に攻撃された百済に味方した史実はあるが、この白村江の戦いはボロ負けしているから、本来フィーチャーしたかった中大兄皇子=天智天皇を持ち上げるのもかなり苦しい。

この敗戦の結果、中国風の律令国家を目指すにも唐としばらく断行状態になった、そのあいだに書かれたのが『古事記』であり、それを主導したのは先帝である兄の息子を滅ぼして天皇になった、まだ法と制度ではなく昔ながらの倭の国のやり方で天皇になった大海人皇子、天武帝だろう。

その『古事記』には、まだ中華風の聖人君子ではない、古来の日本的な価値観の神話の精神が生きている。

なおしばしばワンセットで語られる『古事記』と『日本書紀』の成立年代は、わずか7年くらいの差しかない。 
たったそれだけの間に『古事記』とはまるで異なった、中国的な論理の世界観を受け入れた新たな国家観の体系で、歴史を書き直してしまえるのだから、当時の日本のエリートたちの勉強熱心さと応用力は凄いものだ。

だから日本の独自性を謳いたいのならば、唐相手の敗戦の事実には目をつぶり、『古事記』こそ正史で『日本書紀』には大人しくしてもらおう…と江戸時代後期の国学者、たとえば本居宣長などは考えるわけだが、いかんせん理屈ではそうしたいにも、儒教道徳コテコテの江戸時代のインテリ、当時の知識階級の条件は漢文が読めることである。本人の感性が中国文化に染まっているのに、その古来の日本風に満ちた『古事記』の世界観は、なかなかショッキングである。

いやそれが、当時の江戸庶民や農民には、当たり前で受け入れられる内容だったのだが…。 
つまり彼らのお祭りや芝居、遊郭と墓地などからなる信仰体系はやはり自然神信仰と御霊信仰、積極的に輸入品の神や哲学を取り入れ洗練されたながらも、本質は古墳時代から変わらない、日本独自のアニミズムであり、むしろ『古事記』的な、たとえば性的には極めて奔放なものだったわけで。
ところがその庶民の信仰観、タテマエ上は武家が儒教を奉じて威張っているが、日本を支配する雄大な自然の神々と霊魂の世界観からすれば、そんな人間の決め事ははかないものである、という世界的にも珍しい日本独自な発想こそ、儒教・朱子学の成文化された道徳律を奉ずるが故に自らの知的上位を確立していた国学者ら、武家系の階級意識に支えられた知識人層には、耐え難いものだ。自らの権威性がぜんぶひっくり返されてしまう。

さらに明治維新となると、脱亜入欧の精神で、アジアは劣等民族であり一時は「だから優秀な欧米人の血を!」と、なんと国際結婚を奨励するような論まで例の福沢諭吉サン門下から飛び出したり、「いや日本人の血統は優秀なのだ、アジアと違う」ということでなんとか落ち着いたところで、明治新国家が皇国史観で目指したサムライの国の国家像、天皇中心の帝国主義国家になろうとしていた国にふさわしい忠君愛国の道徳観は、やはり儒教であり、聖徳太子の十七条の憲法的な、中国風のものなのだ。

なにしろそれまで混浴が当たり前だった風呂屋や温泉だって、これでは西洋人に淫乱に思われるから法律で禁止。 
とてもではないが天皇の先祖神アマテラスの弟のスサノオが、どうも激し過ぎる恋心の絶倫セックスでアマテラスに仕える機織り女を悶絶死させてしまったらしく、怒ったアマテラスが天岩戸に閉じこもり、困った神々がストリップ・ショー(本番もアリ?)でお祭り騒ぎをしたら気になって顔を出したアマテラスが、なんて話は困ってしまうし、国ゆずりの神話なんて、つまり平たく読めば天皇家は日本の神々の子孫ではないことになる--それは古代日本ではぜんぜんオッケーな話だったのが、「日本はアジアと違う」とする万世一系神話にこだわると、どうも座りが悪い。 
そのスサノオは若気の至りのヤンチャが過ぎて神々の世界を追われ、八岐大蛇に殺されそうな美女を助けて英雄になるのだが、これも『古事記』と『日本書紀』ではいささかニュアンスが違う。『古事記』では姫の側がスサノオを見初め、助けてくれたらお嫁さんになっていいわ的な、女が男に惚れて求めている話に読めるのだ。 
やはりヤンチャが過ぎて愛する父に疎まれて、それでも父のために頑張って非業の死を遂げるヤマトタケルノミコトも、草薙の剣の逸話をみても、やはりモテモテのヤサ男の英雄、儒教的な男女観の男性上位に尽くす女ではなく、女性の方も積極的に好きな男、イイ男を助けてゲットする女に見える。

『古事記』の神々や人々は、男ならばスサノオノミコトやヤマトタケルノミコトが典型なように、いろいろ男らしさ過剰で問題もあるが、基本「いいヤツ」「根はやさしい」、そして女にモテる、求められる。

なかでも皇国史観においても要になる、日本的な理想の君主像を体現する仁徳天皇は民にやさしく、民のかまどに煙が立ってない、と心配して七年間は租税免除、自分の宮殿のかまども火を立てるな、と命じるわけだが、一方でモテモテな女たらしで、嫉妬深い妻の顔色をうかがう恐妻家、という面も持つ。

「いやそんなにやさしい男は、女がほっとかないよ」的な世界観は『古事記』のそれであり江戸庶民なら歓迎しただろうが、明治新国家が理想としたい天皇像は、「どうもそっちの方が平和だし」と民を第一に考えて争わず、あっけなく国をゆずるやさしい大国主命的な存在もえらく困るわけで、むしろ『日本書紀』的な、儒教的な、謹厳たる家父長的なものだ。

ちなみに現在も宮内庁が採用している古代天皇の陵墓指定は、むろん歴史学・考古学的根拠はなにもなく、本居宣長らがかなりいい加減に決めたものに基づいている。 
堺市にある世界最大の墓とされる大山陵古墳が仁徳天皇陵となっているのは、仁徳帝の都が堺にあったとされるからだけでもあるまい。どうにも儒教的な主従の価値観から抜けられず、民が感謝してこれだけ大きな墓を作ったのだ的な発想で決まったもののようだ。

いや実はこの、古代日本の知的エリートの努力と知力の結晶である『日本書紀』的な、聖人君主を中心とする謹厳な忠義や孝徳を基本とする儒教的な価値観が、表の日本の支配権威だとするならば、その裏のリアリティとして『古事記』的な、アニミズムに基づく、理屈では割り切れない、しかし実は儒教よりもある意味遥かに強固な価値観を秘め守って来た、この二重構造こそが、本来の日本の伝統なのだ。

その日本における天皇とは、表の権威体系では政治的実権を持たない象徴君主として、儒教的かつ中華帝国的なヒエラルキーにおいては空虚な中心であるからこそ、言葉や知識だけでは計り知れない世界の複雑さと人の思いの複雑さを反映した、真の道徳権威の中心だった。

だからこそ天皇に実態権力がなかったのかも知れない。 
権力者はそんなにやさしくなれないし、法と制度なしには永続的で安定した政治を維持するのは難しい。

だいたい、その天皇と言う名目上の権威から征夷大将軍という号を頂くことで権威化された幕府が政治を司った江戸時代において、庶民に天皇は関係なかったというのは、まったくの嘘っぱちである。なんと言っても誰もが朝廷が決め発行させた暦を用いている。将軍家や大名よりよほど身近だ。それは天皇だけが持っている権限だ

儒教倫理において仕えるべきは直接の主君や将軍なのか、天皇なのかという朱子学倫理の幕藩体制の矛盾からも、庶民は自由だった。儒教道徳的な権威のアチャラカ趣味(思いっきり中国風)はしょせん、政治を司る武家などの、オフィシャルな立場のものであり、農民や町民には関係がない。

そのオフィシャルな文脈では空間支配者ではない天皇は、しかし年号を定め暦を発効する時間支配者…というよりも自然界の営みである時間を人間に伝える、庶民にとっては遥かに重要な役割を持っていた。

科学文明のない時代に、吉凶を左右するとみなされた年号を定めることは、人々を安心させるのに重要な精神的役割を持っていた。人間の手には負えないい天変地異や疫病があれば、出来ることは縁起担ぎで年号を変えることくらいだったのだ。

いやなによりも日本は人口の8割超が農民の、農耕民族の国だった。太陰暦の暦を毎年定めることは、豊かな四季を持つその風土において、もっとも生活に関わる重大事である。

「天皇」という位自体が、律令国家の成立期に中国から輸入されたものである。

その本来の意味の「天」、あるいは「天子」とは、宇宙の絶対真理としての「天」の命令、つまり天命を受けて地上を支配する絶対君主、皇帝のことだ。ただし中国皇帝のうちでも特別な神聖さを帯びた者のみが名乗った(たとえば唐の開祖・高宗)特殊称号の「天皇」を輸入しながら、それを政治的には象徴君主に祭り上げてしまっただけでなく、過去の日本人はその意味すら変えてしまった。日本人にとっての「天」は、むしろ四季を通じて豊かに変化する「お天気」であり、「お天道様」=太陽のことである。つまりは空であり、自然そのものである。

儒教的な上下関係の忠孝の世界観は、そのヒエラルキーの中枢であり頂点に「天子」である皇帝を置き、天子はその天命により国と民を支配する。ところがそれを輸入したように見せながら、日本人にとって「天」は、そんな人間世界の秩序体系とは別次元にある自然神の世界なのだ。

日本の庶民にとっての「天皇」とは、本来そういういわば『古事記』的な役割を担い、人間の世界とカミガミをつなぐ意味での「現人神」だった。いかに儒教的な理屈で権威付けしようが、太陽神の子孫である天皇がその仲介者であるところの「天」つまりお天気でありお天道様である自然の神々は、まさに『古事記』の神々や神話的人物たちのごとく気まぐれである

表向きは儒教でも、本当はその自然の声を聞きながら「まあ人間、いろいろあらあな」を前提にやさしさで持って社会をおさめる、いささか融通無碍で摩訶不思議だが、杓子定規で割り切れない自然と共に生きる民族に対応した、決して直接には成文化されえない道徳を担っていたのが、まさに『古事記』的な世界観に象徴される八百万の神々であり、「天皇」だったのではないか?

だから輸入もののカミガミである仏教だって、日本人は結局は平気で、むしろ喜んで受け入れて、古来のカミ信仰とも融合させたのだし(念のため、今では寺院が仏閣と分離して別の信仰体系として「神道」と「仏教」があるように見えるのは、これも明治の捏造である)、天皇が退位して僧籍に入ったっていいのだ。

だいたい海で囲まれた日本列島に住む日本人という民族は、なにか一定の起源神話を持ち得ないし、民族大移動や征服の結果この列島にいるのではない。航海術の限界で少しずつしかこの島国には到達し得ない、その常に海を隔てた外からやって来た人間たちの集積として日本人はある。だから国ゆずりの神話が天皇が渡来神であったことを示していたとしても、ぜんぜん構わないのである。

ただひたすら、いいカミさま、人間にやさしいカミであれば、こだわらない。

まただからこそ、結局は日本人にいちばん根付いた仏教は、衆生を救済を約束するやさしい仏、阿弥陀信仰の浄土真宗である。

史実としての聖徳太子、というか厩戸皇子は天皇位(当時はまだ「大王」だが)に就くことなく、その子山背大兄王は皇位継承争いに巻き込まれたのか、蘇我蝦夷・蘇我入鹿親子に滅ぼされている。

太子が建立した氏寺である法隆寺もその後670年に落雷による大火で焼失したが再建され、『日本書紀』による神話化もあって、聖徳太子は仏教の文脈における日本的なカミとして、延々と信仰が継承され、当初の政治的な位置づけとは違った意味を持って行った。

当時としては極めて科学的な新しい密教という信仰体系を日本にもたらしたスーパーインテリの空海は、仏教以外にも天文学や方位学(道教起源の陰陽五行も、おそらくは空海が伝えている)、絵画や音曲にも通じ、もちろん書に関しては大天才なのは言うまでもないが、死後その存在は完全に神格化され、行ったはずもない東北地方ですら弘法大師が拓いたとされる溜め池や、大師が彫った仏像、大師が病人を癒した伝説がある。 
弘法大師が彫ったと伝承される、福島県・飯舘村の比曾の十三仏
聖徳太子も開国・明治維新期のナショナリスティックな読み替えが起こるまで、同じように神格化されて来たのだろう。

そのなかでもとくに重要だった要素は恐らく、厩戸皇子の諡り名にもなっている「上宮之厩戸豊聡耳命」、この「豊聡耳(トヨトミミないしトヨツミミ)」の起源でもあろう、太子が子どもの頃に、すでに十人の人々の訴えを同時に聞き分けることが出来たという神話ではなかろうか?

いやこの神話こそ、未だに私たちが真っ先に思い浮かべる聖徳太子像だ。

渡来人でも誰でも分け隔てなく、みんなの話をちゃんと聞いてくれるトヨトミミのやさしい太子が「和をもって尊しとなせ」、これが結局、日本人にとっていちばん大切な聖徳太子であり、そういえば太子の写し身とされる法隆寺東院(厩戸皇子の居所だった斑鳩宮跡)・夢殿の本尊は、救世観音である。

法隆寺夢殿の秘仏・救世観音
だがその日本は、明治維新によっていびつに変質してしまった。

百姓の国が侍の国を装い、それまでタテマエでしかなかったコテコテの中国輸入の儒教道徳を武士道と称し、本来それとはまったく相容れないカミ信仰に結びつけて「神道」なるものをデッチあげながら、そのカミ信仰が中国の陰陽五行なども自然に受け入れて来たことすら排除しつつ、絶望的に儒教道徳そのまんまの硬直して人間味のない忠君愛国、つまり中国人でも驚くような杓子定規の中国道徳に染まり、命まで投げ出すファナティシズムにまで暴走させながら、その中国を憎悪するのが今の日本の歪んだ「愛国」である。

そんななか、「豊聡耳」の諡号を持つ、渡来人も寵愛し海の外にも開かれた精神を持つ、みんなの話を聞く「和をもって尊しとなせ」の、救世観音の化身かも知れないやさしいカミである聖徳太子は、お札の顔でなくなってからもうだいぶ経つが、だんだん日本人の精神風景から消えて行きつつある。

法隆寺金堂(国宝)・壁画
*この複写写真撮影後、昭和の大修理中の火災で焼損
最後にひとつだけ爆弾。聖徳太子信仰の名残りとして、今でも「太子町」という地名は関西を中心に多々ある。太子がそこを訪れ奇跡を行い民を助けた伝説もあるのだろうか? それはたいがい、いわゆる被差別部落である。

表向きは儒教と仏教を修めた知的スーパーマンの聖人君子であったカミ・聖徳太子の、本当の日本人にとっての本質とは、こういうことなのである。

その意味で、太子が実在した歴史上に実在した超人だったかどうかは、もはや関係ない。歴史学上の知的好奇心を満たす以外は、本質的な問題ではない。

9/17/2013

あなたの身近な「人格障害」者


「人格障害」という言葉に、「人格を否定された!」と脊髄反射で大騒ぎになる人も多いかも知れないが、これは精神医学における疾患の分類で…というか本当に人格障害と総称されるものが精神疾患といえるかどうかも怪しいわけだが、いずれにせよ「最悪の人格」とか「性格が悪い」という意味ではないので念のため。

それこそ「人格を否定された」と脊髄反射しないで下さい。それって自己愛性か、依存性などの人格障害の可能性があるから。 
無論、それだけでは、判断は出来ませんけどね。

さらに念のために言っておくが、世に名だたる極悪人が「人格障害」である保証もない。カテゴリーによっては「とてもいい人」「つきあって楽しい人」「かわいい」と見える人もいる−−というか実は依存性人格障害の場合、一見「とてもいい人」「つきあって楽しい人」「かわいい」が特徴のうちだったりする。

…というか、たとえば依存性人格障害の特徴は、かなりの部分「癒し系」に合致する。反社会性人格障碍者は、一見快活で魅力的で、決断力があってリーダーシップがあるように見える。

いやだからって「癒し系」の人がみんな依存性人格障害だというわけじゃないし、リーダー向きの性格の人がみんな反社会性人格障碍であるわけがないので念のため。

アドルフ・ヒトラーが反社会性人格障碍、俗にいうサイコパスだったという説は根強いし、実際に記録が残っている言動も、サイコパスを疑わせる部分が多い。だが僕は案外、これは怪しいかも知れないとも思っている。

ちなみにヒトラーが食卓での会話を速記させた記録をpdfで
http://vho.org/aaargh/fran/livres10/HTableTalk.pdf

なお間違ってサイコパス=独裁者と思われないように念のため言っておけば、サダム・フセインにその傾向があったとはまったく思えないし、北朝鮮の金正恩がそうである可能性はまったくないだろうし、また単純に「悪人」ということでは決してなく、たとえば戦後日本の支配体制を決定づけた昭和の妖怪、極悪人の岸信介が反社会性人格障碍であった可能性も、まずないと思う。

ただしお孫さんの安倍晋三が、なんらかの人格障碍である可能性は、もの凄くある。

いやそうでなくて、「お腹が痛い」で呆気なく総理を辞めたこと、最近よくやってる、妙に自信ありげに人差し指を振り上げながら支離滅裂だったり自己撞着があからさまなことを自信満々に言っていたり、噓だと分かり切ってること、たとえば福島第一原発事故が完全に「アンダー・コントロール」なんて、あんな平気な顔して言えませんよ。
ただし安倍晋三さんが人格障碍である可能性が高いからといって、反社会性はまずないように思われる。反社会性人格障碍だったら、あそこまで「言わされてる」感が丸出しにはならないはずだから。

以前『平気でうそをつく人たち』という本がちょっと話題に、ベストセラーになったことがある。実は書評や読んだ人の話だけでだいたい内容は分かったものの、読んでません(汗)。


いわゆるサイコパス、反社会性人格障碍の話らしく、「だったらだいたい知ってる話だし、まあいいかな」というのと、売れる題名なのは分かっているのだが、それだけに気に入らない、と思ってしまったのだ。

いやアメリカの本の翻訳なんだし、日本の出版社のつけた恣意的な題名で判断しちゃいけないんですけどね(こういうやたら理屈っぽい字義通り性とこだわりは、人格障害ではなく発達障害の可能性あり)。

それでもこの本の日本語題名だと、そこまでセンセーショナルに悪魔化していいものか、とも思うのだ。人格障碍やその予備軍は、あなたや私の身近に案外たくさんいる、まさに一見普通に見える、実は身近な存在であり、今の日本の多くの社会的な問題の背景にある可能性も高い。

それに「平気でうそをつく」のが反社会性人格障碍の際立った特徴なのはその通りなのだが、反社会性だけの特徴でもない。

たとえば依存性人格障碍でも平気で嘘をつくし、それがこの病気(と言っていいのかも怪しいのではあるが)の特徴的な症状の結果である場合がほとんどだ。

しかも「平気でうそをつく」のがたとえば依存性でも、演技性でも、自己愛性でも、境界性(というのはその実、医者がうまく分類出来ないから適当に放り込むカテゴリーなわけだが)でも、それぞれの分類の人格障碍で大なり小なり見られる際立った特徴であるだけに、誤解を招きかねない。

それに反社会性人格障碍の話が、日本でベストセラーになるのも気に入らない。

どう考えても日本ではあまり数が多くないはずだ。この本を読んで心当たりがある、と思った人も多いと思うが、そのほとんどがたぶん反社会性人格障碍ではない。恐らくはかなりの部分が、日本に多いと推論される依存性人格障害や、最近増えてる可能性が無視出来ない自己愛性人格障碍だ。

反社会性人格障碍が日本にいないわけではなかろうが、その事例でも自己愛性にかなり偏っている場合が、たぶん多いだろう。

依存性人格障害や自己愛性人格障碍の方が日本には恐らく、その予備軍も含めれば相当に多いのだし、本当はみなさん、こっちの話をちゃんと読んで学んだ方がいいと思うのだが、その臨床と研究を続けている矢幡洋さんの、依存性と日本社会の特徴を結びつけつつ論じた、かなり分かり易い入門書だとかは、ぜんぜん話題にもならず、あまり売れていないようだ。

ちょっとご紹介しておこう。
いやまあ、他人のことなら「人格障碍だ」と言えばスッキリする、でも自分たちのことは考えたくない、というのも理解は出来るんですが、こうもミもフタもなく精神医学や心理学でいう「否認」「自己逃避」の実例になりかねない話だと、それはそれで頭を抱えるわけで。

先述の通り、依存性人格障害の特徴はかなりの部分「癒し系」だ。

癒し系でやさしい、思いやりや気配りのある人だと思っていた相手が、なにかもの凄く大変なときに「あれ?」と思わざるを得ないくらいに豹変した経験はないだろうか?

  • 突然薄情になる。
  • 親友や仲間だとか思っていたり、それこそ恋人だった相手でさえ、突然人間関係から身を引いてしまう。
  • 平気で噓をつき始め、責任のなすりつけに終始する。
  • いかにも頭が真っ白と言わんばかりに表情が消え、黙り込む。
  • なにが言いたいのか分からないことを呪文のように繰り返す。

こんな感じで、こっちがなにがなんだか分からず「え? なんでこうなるの?」と愕然とする、という経験をお持ちではないだろうか?

あるいはその本人がなにか重い責任を背負い込んだとき、

  • なぜかなんの深刻さも自覚がなく、なぜかケロっとしている
  • なんの躊躇もなく、呆気なく責任放棄
  • 話が噛み合ない
そこで「どういうことだ?」と問われると…
  • いろいろいいわけはするのだが、そのいいわけの内容にかえって腹が立つ
  • 記憶が消えている
  • 一貫性のない作り話や言いがかり
  • 逆に右も左も分からないパニック状態で逆ギレ
  • 無表情で黙り込む

「え? なんでこうなるの?」とこっちはキツネにつままれた気分にさえなる。

この突然の豹変と反応は、なにがなんだかさっぱり分からない。

平たく言ってしまえば、こういうのがたいがいの場合、依存性人格障害だ(ただしあなた自身が人格障碍を抱えていて、責任の転嫁・なすりつけを無自覚にやっていない場合に限る)

元々は浄土真宗の教えなのだと思うが、私たちは生きているだけではなく、(あらゆる衆生に)生かされてるという考え方がある。この話をある女の子にしたら、「そうなんです。私は生かされているんだからこのままでいいんです!生かしてくれる人に感謝しています!」と言い張られたことがある。

まさに「え?なんでこうなるの?」である。

一応はミュージシャンや演劇志望、アーティストを目指してるはずの彼女にとっては、自己表現をすれば数は少ないとはいえ観客が喜んでくれるのだから、自分は生かされている、生かしてもらえるだけの正当性があるのだ、と思っているのであろう。

どうも依存性人格障害の典型に思えるパターンなので、確認のため混ぜっ返す指摘をしてみた。

「でもそれは、あなたもまた他人を生かしている、という意味でもあるよね。生かされていることに感謝するということは、自分もまたその人たちを生かす、あるいはその人たちに自分が生かしてもらっていることを、自分が他の人を生かすことにつなげなきゃ、いけないよね」

ちなみにこれが、浄土真宗で「皆さんは生かされているのです」と法話でお説教する際の、キモの部分の定番である。なんだかんだ言って天才・親鸞の拓いた日本仏教の最大宗派、よく出来てます。

とたんに思考停止で「だからそれはぁ」と言った後が続かない、そのままパニック状態だ。後でヒステリックな罵倒に満ちた絶縁メールまで飛んで来た。

この女の子の場合でも、普段は依存性人格障害に多く見られる「癒し系」のパターンで一見「とてもいい人」「つきあって楽しい人」「かわいい」し、こういう状態に追い込まれることさえなければ、熱心にミュージシャン志望や演劇志望をやっているように見える。

だがなにかの間違いでもない限り、スターになることはあり得まい。

もっとも、僕はよく知らないのだが、AKB48というのは、まさにその「なにかの間違い」で大成功している例にしか見えなさそうに思える。
矢幡洋先生によれば、「たれぱんだ」などのゆるキャラの流行もそうで、日本全体が幼稚なタイプの依存性の傾向を強めている可能性があるという、その好例なのかも知れない。

なお一時期、サイコパスをアスペルガー症候群などの発達障碍の性格的な特徴と誤解して、「人の気持ちが分からない」「人を人としてみていない」故に犯罪予備軍とみなす風潮が蔓延したが、これは完全な間違いであり、露骨な差別偏見だ

発達障碍と犯罪的・反社会的な行動、あるいは「やさしい」かどうか、「思いやり」の有無、あるいは倫理観の歪みに、直接の関係性が、そもそもまったくない。

だいたいアスペルガー症候群などが「人の気持ちが分からない」はまったくの間違いだ。「空気を読む」、つまり直感的かつ無自覚にその場の雰囲気から気分を察することには確かに困難が伴うが、意識している感覚ではむしろより敏感で、観察力と想像力でむしろ人の気持ちを鋭く見抜く人も多い。

音楽家、画家、映画監督、それに俳優にも、発達障碍の可能性が指摘される人、カミングアウトしている人も多いではないか。「人の気持ちが分からない」どころか、こうなるとまったくの真逆だ。

たとえばグレン・グールド、美空ひばりらはその可能性が指摘されているが、だいたい絶対音感とされる音の認識の在り方に、発達障碍との関連性があるとされるのだし。 
グレン・グールド演奏、バッハ『平均律クラヴィーア曲集第一巻』 
ファン・ゴッホ、フランシス・ベーコン、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ポール・セザンヌになんらかの発達障碍があった可能性も高いし、スティーヴン・スピルバーグも長いあいだアスペルガーとの噂があったが、最近学習障碍を公表した。 
トム・クルーズは失読症を公表しているし、マイケル・ジャクソンの「奇行」とされるものも発達障碍で説明出来なくもない。 

アルフレッド・ヒッチコック『サボタージュ』 
アルフレッド・ヒッチコック、フランソワ・トリュフォーも映画の表現スタイルからも、様々なエピソードからも、その傾向は指摘出来なくはない。強迫観念的な早口で有名なマーティン・スコセッシも、『エイジ・オブ・イノセンス』におけるディテールの積み重ねによるシャープな心理分析など、発達障碍的なものの見方が指摘出来そうだ。


先天的な脳の認知機能の問題であるアスペルガーなどの発達障碍(先天性なんだから「発達」ではなく、むしろ自閉症スペクトラム障碍、と言う分類の方が正しいと思う。いやまあ「自閉症」と言う用語も誤解は招くのだが)には、犯罪行動はほとんど関係しない。

せいぜいが「巻き込まれるリスクが高い」「追い込まれる場合がある」くらいしか言えない。

先天的な犯罪者予備軍がいると誤解した方が「自分は正常」と思えて楽なのだろうが、生まれつき「おかしな」人だから危険という理解は、たいがい間違っている(分かり易く差別だし)

自閉症や、アスペルガーなどの自閉症スペクトラム障碍は「しつけ」の問題ではまったくない、とまで言ってしまうのと、それはちょっと厳密には間違いになるのだが、そういう障碍があることそれ自体については、親のしつけはまったく関係がないのはその通りだ。ただその障碍を持った子どもがどう幸せになれるかは、親の扱い次第の部分が大きい、というだけである。

一方で人格障碍、いわゆるサイコパスは後天的・環境要因である。

つまりはっきり言えば、「親が悪い」「学校が悪い」でかなりの部分、説明はつく。生育環境における歪んだ体験の積み重ねのせいで世界観の認識の歪みから行動原理に倒錯が現れ、倫理観が乏しいか欠如している。

だから「平気でうそをつく」だけでなく、倫理観が乏しいか欠如している以上は、犯罪との直接的な因果関係は無視できない。

…というか、はっきり言って犯罪予備軍である。

ここで「倫理観」とか言い出すと、「ちょっと待て、宗教や道徳の授業じゃないんだから。科学なんでしょ」と怒られそうだが、ここで言っている「倫理観」は「悪いことだからやめましょう」「法律で決まってるから悪いことです」的な話ではないので念のため。 
人間が社会的な生物である以上、他者との関係を通して社会を維持する必要が個々人に課せられている。 
平たく言ってしまえば自分の行動が他者にどう影響するのかのリスクの認識がなければ、対人関係を維持し社会的な立場を確保することは難しい。 
そうした関係性におけるリスクの高い、損失の大きい行為や考え方を、宗教や社会道徳では「悪」とみなすことで社会秩序を維持していると科学的にはみなせるわけで、この場合の「倫理観が乏しいか欠如」とは善悪の選択のことではない。「悪」とみなされることを承知でその「悪」をなすことを指しているのではない。 
世紀の極悪人が「倫理観が乏しいか欠如」して反社会性人格障碍とみなされるわけではない、とはそういうことだ。自覚的に、自らの判断でやっていることを「人格障碍」と呼称する理由はない。

反社会性人格障碍の特徴のひとつが、社会的な倫理観に基づく良心の呵責がない、だからたとえば「平気で噓をつく」ことにもなるのだが、だからって希代の詐欺師がみんな反社会性人格障碍だとは言えない。

むしろ成功する詐欺の常習犯では、サイコパスの比率は、少ないかも知れない。

なぜなら「平気でうそをつく人」であれば、嘘をつくことそれ自体のハードルは低く、簡単なのだろうが、バレないように噓を突き通すのはもの凄く難しい、自分の噓がバレることを計算に入れて先回りして行動するぐらいでなくては、なかなか無理な相談だからだ。同じ理由で、岸信介が反社会性人格障碍だったとは思えない。冷酷な極悪人であったのは確かだが。

良心の呵責がなければ人殺しだって簡単だろう。

だが良心の呵責があっても、それでもそれを乗り越えて人を殺す場合だってある。自ら悪を選択する意志があっての犯罪は、精神医療の範疇ではないし、障碍とみなすべきものではない(もっとも人格障碍が精神医療の対象である「病気」かどうかは、議論の余地があり過ぎるのだが)。

また反社会性人格障碍とは、秋葉原無差別殺傷事件の加藤智大被告のような人のことでもない。

念のためやった精神鑑定でも、まったくその傾向がないことは結果が出ている。加藤智大君は人殺しが悪いことだとちゃんと認識し、その良心の呵責もありながら、それでも人を殺すことの欲望というか彼にとっての必然や怒りが、それを凌駕してしまっていることは、彼が犯行に至るまでシステマティックに追いつめて行った論理性を見ればまず疑いがない。 
彼は「平気でうそをつく人」ではなかった。むしろうそをつけない、真面目過ぎたのかも知れない。 
オウム真理教の麻原彰晃(松本智津夫)死刑囚が反社会性人格障碍という可能性はあるだろうが、それだけで片付けてレッテル貼りできるものでもないとも思う。

反社会性人格障碍や自己愛性人格障碍の人間のなかには、自分が悪とみなされることをむしろ望んでいる面すら観察出来る。

「ワルぶっている」人間がすべてサイコパスだと言う意味では決してないが、自己愛性、ないし反社会性人格障碍の人間は「ワルぶって」いることがむしろかっこいい(そう受け取られる素地も、こと欲求不満とコンプレックスの溜まった社会では大いにあり得る)ことにだけ執し、「ワル」と見られることのリスクを実はまったく認識していない(普通ならどんなに「ワルぶって」見せようとしても、直感的な躊躇がどこかであり、それを乗り越えてワルを気取るものだ)傾向がある。

「平気でうそをつく」のも、それは噓をつくことが無意識・無自覚のレベルで本人には「平気」だから、直感的に噓がバレた場合のリスクも考える、ということをやらないぶん簡単に出来ることなのだ。

確信犯的な嘘つきにとって、噓をつくことは「平気」ではない。噓がバレたときのリスクを計算の上、バレないように噓をつく努力などはちゃんとやらなければ安心出来ないのだが、それは元々、人間は簡単に噓をつけない、そのリスクを考えてしまう生きものだからでもある。

希代の詐欺師や悪徳政治家は、自分達の噓が暴露されればどうなるかのリスクを認識していなければ、そこまで大それたことをやる前にたいがいは潰れてしまう。

ヒトラーが本当にサイコパスだったかどうかいささか疑問があるのもここで、彼を支持したドイツ国民がそのサイコパスに騙されることを無自覚に受け入れ続けていたか望み続けていたのでもない限り、一過性ならともかく、12年に渡って政権を維持することは不可能に思えるからだ。 
また岸信介がサイコパスだったとみなすのはかなり難しいのも同じだ。

逆に「平気でうそをつく人たち」である人格障碍者は、その噓がバレたときのリスク認識が直感的なレベルで抜け落ちている。意識的にそれを補完することは気づけばやるのだろうが、たいがいの場合は噓に噓を重ねてますますおかしくなって、まさに「え? なんでこうなるの?」とこちらがキョトンとしてしまう状態になる…のが本人たちの自覚はまったくないらしい。

まあ他人の心のなかが、そこまで把握できるわけでもなく、実は自覚はしていても、それでも続けているのかも知れないが…。 
依存性人格障害の場合、それがこちらに対して発しているSOS、もうそんなに追いつめないで、ボク壊れちゃう、ということなのかも知れないが… 
…そんな勝手なこと言われても困るんだけど。他人には分からんよ、そんなの。

人格障碍者が「平気でうそをつく」、あるいは肝心なときに「妙に無責任」で「深刻さが欠けているようにしか見えない」、他人を巻き込むことを厭わず思考停止のパニック状態を見せつけるのは、それが他人様や相手を怒らせたり、不快にするリスクを、そもそも実は認識出来ないか、その認識が著しく乏しいから、と説明出来るだろう。

倫理観が低い、ないし欠如しているというのは、道徳の教科書レベルの話ではない。

社会的生物としての他者との関係におけるリスク、赤の他人が自分をどう思うかについての直感的なリスク感覚が、そもそも抜け落ちている。その言動が「間違っている」、ないし相手を怒らせたり不快にさせたりするリスクを、認識出来ていないのだ。

世界観のなかに「他人様」がいない、とも言える。他人様がいない世界観だから、目の前にいるのが他人様であって、その人の感情や意志は独立したものだと認識していないなら、その他人様に自分をぶつける際に必要なはずの倫理観も必要ないのだ。

自分とはあくまで別個の存在としての他者ではなく、他者をすべて自己の期待や欲望の延長上か、自分の感情の投影先としてしか、実はみなしていない

たとえば、他人様を自分が怒らせた認識がなく、怒った相手が「自分を攻撃している」としか認識出来ない。 
あるいは自分が追いつめられて感情的になっているのは、それが相手が自分の感情を刺激しているからであり、それは相手が攻撃しているのか、感情的になっているのだ、という客観性に欠けて誤った認識(自己逃避であり自己投影)を即座に、かつ無自覚に採用し、それに固執してしまう。

今日、このテの「え?なんでこうなるの?」的な行動原理を「人格障碍」、Personality Disorder と分類する概念が生まれ、そう分類される事象が研究されるようになったのは、まずアメリカの精神医学で盛んになったことだが、アメリカでサイコパス、反社会性人格障碍をめぐる議論や言説や研究、さらには映画や小説までどんどん産まれるのは、実際にそれに該当する人が確かに多いと思われる(事件すら多い)し、文化や社会の価値観からしてそれは説明がつく。

なんせアメリカ合衆国って、反社会性人格障碍くらいあった方が、出世し易い国なんだもん。

あるいは今の米軍がやっている訓練方法には殺人に伴う良心の呵責を押さえる心理誘導がシステマティックに組み込まれているので、米軍、とくに海兵隊のブートキャンプだとかは、サイコパスの育成装置になっている、とすら言えてしまう。

一方で日本は社会の価値観からして依存性人格障碍、それも自虐性に偏った依存性が従来は多かったと推測されるし(旧日本陸軍なんて、かなりの部分が自虐性の依存性人格障碍を奨励する組織だった)、今では小児性や自己愛性に偏った、幼稚なタイプなどと分類される人格障碍が増えている可能性は、もの凄くある。日本の場合はある意味、学校教育がそれを奨励しているんだから

逆にアメリカの精神医学では、依存性人格障碍はあまり注目されない。

ヨーロッパでもフランスなんかでは「理解出来ない」と言われそうだ。そりゃそうだ、僕もあの国の小学校で育っているが、ああいう教育やああいう子育てでは、依存性になんぞに陥りようがないように思える−−と言って、実際にいないわけではない。だたあっけなく無視されがちだから、社会的な影響力をほとんど持ち得ない。依存性を発揮して取り入ろうとしても、それを受け入れる素地が社会の側にない。

日本はかなり逆で、大きな事件などがなにもなければ、依存性があった方が生き易い。

アメリカやフランスのような社会で依存性人格障碍が大きな被害をもたらすとすれば、社会的な犯罪よりは、DVなど家庭内、パーソナルでプライヴェートな空間においてだろう。

こうしたアメリカの精神医学界が起源の人格障碍をめぐる議論や、人格障碍を事実上の精神疾患として扱う、精神科医が認知行動療法などを用いて治療にあたる、という考え方に、僕は以前はそれなりに納得していたが、今は「本当にそれでいいのか」とも思う。

いやもう、とくに日本では「人格障碍なんて精神科医が儲けるための詐欺だ」という極論すら最近は出ているし、これもそれなりに傾聴には値する話だ。

参考まで、精神科医・内海聡氏の見解 

既存の(アメリカ起源の)モデルでは、人格障碍は誰もが大なり小なり持っている性格上の特質が極端化した状態だと言われている。

今の精神医学の定説では反社会性と依存性は同一線上の逆方向のベクトル、社会に対する順応・協調性が強過ぎると依存性、逆に独立心が強過ぎると反社会性、と分類している。だが、この説はえらく勘違いした単純化だと思うし、こんな杜撰なモデルでは、いくらカウンセリングをやっても破綻しそうだ。

というのも、反社会性人格障碍と自己愛性人格障碍には一見共通するところが多く、反社会性と依存性人格障碍では真反対に分類されているが、よく見ているとそうではなく、むしろ行動パターンの表層では真逆に見えても、分析的に見れば実は共通点が多く、そして親和性が高く同じ集団を形成する場合も少なくないからだ。


  • 妙に子どもっぽい。ただし若々しいとか純粋という意味ではない。
  • 人間関係の作り方や維持の仕方がものすごくワンパターン。でもなぜかそれに本人が飽きることがなく、人間関係の発展や学習能力も期待できない。
  • 「自分の責任」という認識がないか、著しく低い。妙に無責任。あらゆる事実関係や価値観を無視して、結局はすべて「他人のせい」。
  • 対人・対社会の関係におけるリスク判断が、対人関係に依存しているはずの依存性人格障害ですら、実は抜け落ちている。「言われたからその通りにやる」「それがルールだから」までしか考えておらず、なぜそのルールがあるのかを体感的に理解出来ていない。だから「ルールを守ってるじゃないか」と逆ギレする。
  • 会話の受け答えがかなり行き当たりばったりで、よく聞いていると言ってることの筋が通らない
  • 正誤や価値の判断における一般性、普遍性の認識や論理性が欠如している。だから反社会性人格障碍の場合、一見多くの知識を駆使しているように見えるが、その知の体系に一貫性がなく、行き当たりばったりにその場その場で偉そうに自説らしきものをぶっているだけで、自己矛盾が激しく、実は「自説」として成立していない。依存性の場合、人間関係における上位者に従い依存しているだけで、ある一貫性のある価値観や普遍性のある倫理判断に従っているのではないため、やはり自己矛盾した受け売りが多い。
  • 事実関係の把握が、一方的に自己正当化の方向に歪んでいる
  • とても無邪気にうそをつく。
  • いいわけがいいわけになってない、かえって相手を怒らせることを言う
  • 自己逃避と自己投影が激しく、自分のモノ差しや自分の都合だけで相手を一方的に決めつける。結果、ただでさえ正誤や価値の判断の一般性・普遍性がないことによるダブスタや、いわゆるブーメラン状態が、無自覚な思い込みでますます増える。
  • 知識や認識が自分のなかで体系化されていないので、実は思いっきり権威主義。ポーズとして反権威主義、反体制的に振る舞っても、一皮むけばもの凄く薄っぺらに肩書きや社会の決まりごとに左右されている。反社会性人格障碍であれば社会に反抗しているようでありながら、社会的な地位に拘泥・執着する。依存性人格障害の場合も「みんながそう言っている」と、自分に味方してくれている周囲の支持だけで自己を正当化する。
  • 自分のやったことの記憶が消えている。逆に他人にやられたことは極端に根に持つ。
  • 一見激しく感情を発露しているように見えても、実は感情が希薄である。一定の複雑さを持った人間らしい感情が欠如している。「喜怒哀楽」という単純化した分類だけでも、反社会性人格障碍の場合は「喜怒」しかなく、依存性人格障害の場合は「哀楽」しかない。実は「自分が認められている」ことに対するポジティブな感情と「自分が否定されている」ことに対する反発、この二つの感情だけでたいがい説明がついてしまう。

いやこうなると、人格障碍の様々な種類を今のやり方で分類することの限界まで見えて来た気がする。反社会性と依存性という区分け自体が怪しく思えて来たぞ。どうも現在提案されているモデルは、まだまだ改善や再検証が必要ではないだろうか?

「人格障碍」と言葉の響きは、なんだかおどろおどろしいことを想像されそうだし、今まで書いて来たこともえらく不気味に思われるかも知れないが、これはいわゆる精神疾患(かどうかも厳密には怪しい←しつこい!)のなかでは理論上、もっとも深刻でない部類になる。

だいたい、だから精神疾患とみなすべきどうか議論が分かれるのだ。

対人関係におけるリスクを勘案して社会的生物としての自分の地位と、所属する社会の秩序を維持する必要までは、全人類に共通することだが、それがどう実践されるかは「噓はいけません」「人殺しはいけません」程度のもっともベーシックな倫理観以外では、社会や文化によって、その倫理観がどのように体系化されているのかも含め、かなり千差万別である。

たとえば江戸時代までの日本は、現代とかなり異なった倫理観を持っていたし、それは表面的には極度に西洋化された現代でも、無自覚なレベルでは相当に残存している。詳しくはこちら→「私的・江戸時代論

つまり多くの人格障碍者には欠如しているか認識が著しく低いと思われる倫理観の形成は、それぞれの人間が育ち所属した社会やコミュニティの文化に左右されている以上、先天的に人間に組み込まれた「本能」とは言い難い。

それに人間どうしのつき合い方の文化ともなれば、倫理規範のベースとなる宗教によって一定の統一性を持つわけでもなく、もっと多様だ。

強いて言えばそういう個々の文化や社会の差異にも関わらず、そこを超越して語りかける力を持つ芸術表現のなかにだけ、その「人間の本能としての良心」が息づいているのかも知れない
というか、無自覚にでもその確信がなければ、たぶん誰も映画だの演劇だと小説だの、やってません。

だから人格障碍は明らかに後天的な環境要因と考えるべきであり、ぶっちゃけしつけや子育ての失敗に起因する場合が多い。意識や認識の構造の問題ではあるが、脳の器質的な機能の欠陥に直接関係はしない、要は育っている環境の結果認識や意識、世界観が歪んでしまった、という程度のことであり、精神医学による対処が本当に適しているとも言えないからだ。

むしろ禅寺で修行するとか、熱心に農業でもやるとか、職人に弟子入りするとか、なにかの体験で気づいて自分を克服するとか、小説でも映画でも演劇でも、あるいは音楽でも絵でも、なんらかの形で世界観をスッキリさせる芸術体験の方が有益だったりする。

いや恋愛や最高のセックスだって、その方が有効な場合もありそうだ。

だから「こんなもん精神科で扱うのがおかしい、儲け主義の詐欺だ」と言われても、それはそれで納得せざるを得ない。

ただし、上記のような精神科以外の方法はいずれも万能ではないし、逆効果の場合だってある。それを言ったら精神科医のカウンセリングだってまったく同じことではあるが。

題名は忘れてしまったが、ある韓国映画で、子どもを殺された母親がその殺人犯に刑務所で面会するシーンがあった。犯人は自分の罪を悔いているという。だが自分は罪を悔いて神に許されたのだから、母親にはもう彼を責めることは出来ない、と続けるのだ。 
まさに「え?なんでこうなるの?」と観客はキツネにつままれた気分になる話だ。ひたすらキョトンとしてしまうし、あまりに意外なので反論が出来ないちゃぶ台返し、その母は怒ることも出来ず、ただ哀しみにますます突き落とされる。 
この通り、サイコパスにはキリスト教もまったく役に立たないこともある。

また原因が深刻な器質的な機能の欠陥ではないし精神疾患と分類して深刻に考えるべきでないと言って、治療が簡単だとか(「治療」と言えるのかも怪しい←しつこい!)、回復し易いわけではない。

たとえばリストカットは境界性人格障碍がかなり重度な場合に、よく見られる行動だとされる。重度なパニック障碍に陥る場合だってあるし、出て来る症状には深刻(に見える)ものだって少なくない。

それに回復は、より重度であるはずの精神疾患よりもさらに難しいかも知れない。薬物は関係ない、役に立たないし。サイコパスと言われるレベルでは、治療しようがない、治らない、という見方もある。

たとえば、幼少時から虐待的な環境で育ってしまうと、人格障碍に陥るのは極めて可能性が高い。家庭内なら親、学校でも大人や社会との健全な関係を持つことが最初から禁じられてしまっているのだ。

このトラウマを克服するのが非常に難しいのは、言うまでもない。

そうした虐待的な環境がどれだけの禍根を子どもの将来に残すのか、日本ではまだまだ事態の深刻さが理解されているとは言い難い。虐待する親から子どもを引き離せればめでたしめでたし、とは絶対にならないのだ。

以前、クリントン米大統領が自分を「アダルト・チルドレン」と告白したことがあるが、これも一種の人格障碍である。なおこう告白出来る、つまりは自覚しているだけでも、人格障碍は半分は治ったようなものである場合も多い。

これも誤解されがちなのだが、「虐待的な環境」というのは子どもにとって、ただ親が暴力を振るうとか、ネグレクト=薄情な親、愛情が欠如、といった話に単純化していい問題でもない。「アダルト・チルドレン」はこと現代の日本の場合、多くの人が思っているよりも遥かに多い。

一昔前、母親と娘が仲良く同じ洋服を、とかの事象が「一卵性親子」と言われたが、あれだって共依存関係に我が子を陥れる虐待的な関係であり、依存性人格障碍の典型のひとつだ。

暴力を伴わなくとも子どもが親や周囲の大人の思い通りに行動する、そうすることが正常な親子関係だと子どもが思い込んでしまう、親を喜ばせることが子どもの最大の喜びになってしまえば、それだけで立派に虐待的な親子関係、虐待的な子どもと大人の関係であり、人格障碍の温床でもある。

学校でのいじめでも、表層の理屈だけでなく実際の感覚として、いじめられた子どもが自分の受けた体験は不当なものであると認識し、いじめた側の子どもにきちんと反省できる認識を与えるよう教師や学校がふるまわなければ、もし出来ないのなら子どもがそれを「これは大人が、先生がダメなんだ」ときちんと心の奥底にまで腑に落ちて認識出来ない限り、やはり人格障碍の温床になり得る。

だから今の日本で蔓延している、上辺だけの対症療法的ないじめ対策は、完全に誤っているのだ。

自分と他人との関わりとして「いじめ」が不当であり異常であり、そこに順応する必要がない、生存のためやむを得ず合せていると自覚できるならいいが、そういう下位に置かれた立場が自分の世界との関わり方なのだと思ってしまい、たとえばそこに服従することを潜在意識で前提としてしまえば、依存性人格障害に陥っている可能性がある。

また加害者の側でも、きちんと自分の行いを認識・反省出来なければ反社会性人格障碍や自己愛性人格障碍になる可能性は無視出来ないし、加害者グループ側でもいわば下っ端、付和雷同型の加担者は、被害者より重度に依存性人格障害になる可能性が極めて高い。

親が子どもに対して親としてちゃんと振る舞えない、極度に自信のない親が子どもに反抗期をちゃんとやらせない、「好きにしなさい」的に振る舞うだけの、子どもの自由を認めると装いつつ、実はネグレクトの状態で、幼児の持っている万能感を克服させられないまま育ててしまえば、自己愛性人格障碍や反社会性人格障碍になる可能性も高い。

これらの子どもの育ち方の環境の問題を、「だから『親学』だ」的な安易で薄っぺらな抽象論と勘違いしないで欲しい。

人格障碍とはあるイデオロギーを信奉するかしないか的な問題ではなく、その前提となる世界の認識に起こる倒錯である。たとえば『親学』を信奉し実践する親のその動機がたとえば依存性人格障害的なものであれば、教科書的にそこで推奨されていることを実践しても、決してうまくいかない。

依存性人格障碍の親は、子どもに不機嫌になられる、怒ったり泣いたりされるだけで自信を失ってしまうので、ひたすらそれを避ける傾向がある。それが「親学」なら「親学」という権威に依存出来るとなると、とたんに杓子定規に、子どもの反応も見ずに押し付け始める場合も少なくないだろう。

そこでまして「言われた通りにやってるのにうまくいかないじゃない!」だけで親が思考停止する(依存性人格障害の典型的な行動原理)なら…

…っていうか『親学』とやらで言ってる子どもとのスキンシップが、愛情がどうこう、あれはすでに子どもからみれば過剰な抑圧です。 
それを気持ち悪がらずにベタベタして喜んでる子どもって、それだけでも危険に思えますよ…。 
だいたい子育てに「○○の伝統的価値観」とかの大人の政治性をうっかり持ち込まないで欲しい。その発想自体が、虐待的だ。

実際には、人格障碍を精神科医が扱うことになるのには、やむを得ない面はある。

本人が思いっきり人格障碍な状態でも、日常生活に即座にそれほど支障があるわけでは必ずしもない。

反社会性人格障碍の多くは一見バリバリ仕事ができて有能に見えたりもするし、自己愛性人格障碍は本質的な幼稚ささえ隠せれば自信に満ちあふれて見えるかも知れないし、依存性人格障害は(さっきからしつこく言ってるけど「癒し系」に見えるから)協調性と気配りがあるように見え、周囲からかわいがられたりする。

問題が顕在化するのは、どうしようもなく大変な状況になった時だけ、というのがほとんどだ。

人格障碍のある人は実は社会的な耐性が極端に低い。ストレスに弱いだけでなく、場合によっては無駄で過剰なストレスを自分で作り出してしまう。

一見、周囲の仲間とは仲がいいから社会性が高く見える多くの依存性人格障害の人も、実は自分の依存先との人間関係が、潜在的に支配−被支配関係なので相手にとって気持ちよく、だからうまく行っているように見えているだけで、社会性が極端に低い。

だから少しでもその依存関係の構築では通用しない人間関係になってしまうと、とたんに「なにがそんなに大変なんだろう?」とハタ目には思うほど大混乱、パニック状態になって頭真っ白なまま錯乱した言動に陥ったり、過剰に興奮してパニック障碍を起こしたり、リストカットに走ったり、いわゆる頭が真っ白の状態になってなにも出来ずに自分の殻に引きこもって、あたかも鬱病になったかのようにさえ見える場合もある。

つまり世間的に言えば、やはり精神科医の出番である。

極端な場合、まるで鬱病にみえる(だが実は責任回避に懸命なだけの、一種の無自覚な演技)状態であるだけならまだいいが、過剰なストレスで本当に鬱病、つまり今の定説では脳内の神経物質の分泌異常の悪循環でどんどん落ち込んで行く、これは間違いなく精神疾患になる場合だってあるだろう。

もっとも、実はこれを峻別する方法論が、現代の医学にあるわけでは必ずしもないわけだが。 
なにしろ鬱病が脳内の神経物質の分泌異常の悪循環という定説だって、実際のその脳内物質の分泌量をリアリタイムに、鬱病の人の脳内で計測することなんて出来ないのだから、「この物質がこれだけ出てるから鬱病です」という数値化された診断基準があるわけではない。 
今話題の新型うつ病だって、本当は人格障碍者がパニックで思考停止に陥っただけなのかも知れないし、だいたい、ならば「なんで鬱病の診断が出て仕事を休んでいる人がこんなに元気にSNSで自己愛的な感情をむき出しに出来ているんだろう?」的な疑問も一応説明はつく。
あと「妙に無責任で深刻さに欠ける」が、依存性人格障害にも新型うつ病とされるものにも、双方に指摘されているのも含め。 
これがいわゆる古典的な鬱病、自虐性が強く親メランコリー気質、つまり真面目で責任感が強く自分を責めてしまいがちな人がなり易いとされて来た従来の鬱病の特徴と比較するに、精神科医が首を傾げて来たことなわけであるが。

…とここまで読んで下さった皆さんの多くが、「あるある!いるいる、そう言う人!」と思っているのではないだろうか?

ことインターネットを積極的に利用して、時に政治問題とか社会問題に関する議論や運動に関わっている人は、そういう体験をもの凄く多くしているはずだ。

  • 反論ができなくなるとすぐ論点がズレる
  • 無関係な話で相手を攻撃する
  • なんの脈絡もなく、すぐ「誰某もこう言っている」という話になる
  • 客観的には普通の言葉遣いでも、乱暴だ、罵倒されたと言い出す
  • 遡るだけですぐにバレる嘘を平気でつく

すべてあまりにも日常的な風景だし、それでも誤摩化しが効かずに追いつめられると、同じような主張や運動に関わる人が加勢して来て「炎上」を企んだり、慰め合って噓を言い合うとか、もう見慣れてしまって飽き飽きしている人も多いだろう。

そうやって仲良さそうに見える者同志が、いざその相互間で大変な問題が起こると、突然決裂するのもよくある。ちょっとしたミスだったり、自分の考えが間違っていたら、すぐに謝れば済むことなのにねえ…。

反論出来なくなったら、とりあえず黙って考えればいいのに。

まさに「なんでこうなるの?」とこっちはキツネにつままれた気分にさえなる

まさに「なにがなんだか分からない」状態だ。

「なんでこうも平気で噓が言えるんだろう?」

「自分の言動が批判されたらただ逆ギレってどういうこと?」

それを平然とやってしまえる人がその仲間内(クラスタ、って言うんですか?)のリーダー格なら、反社会性人格障碍や自己愛性人格障碍の可能性は大いにあるし、自分の失言をそういうリーダー格に「守って」もらったりお仲間に慰めてもらったりしている人は、依存性人格障害の幼稚なタイプの可能性が極めて高いし、依存先であるリーダー格やお仲間の失言が批判されている時に、よせばいいのに「誰々さんを守らなきゃ」的に蛮勇を発揮してしまうのは、自虐性の依存性人格障害である可能性を無視出来ない。

あるいは自分が怒らせた相手に一生懸命に媚を売るかのような言動に走るのも、これまた依存性人格障害である可能性が相当にある。人間関係を依存先との上下・支配関係でしか構築出来ていないのだ。

昨今、インターネットの使用に依存性がある、脳に無視出来ない異常を来す、といった論も花盛りだ。これもどこまで信憑性があるのかどうか、話題性があってセンセーショナルなわけで売らんかな精神も相当に作用しているのだろうが、さりとてここまで異様な言論が蔓延すると、その可能性を無視も出来ない。

僕はまだ見つけてないのだが、インターネットが人格障碍の状態を助長する、というような論考を誰か書いていませんか?あったら教えて下さい。

ネットが人間の精神に与える影響の可能性さえクリア出来れば、なんでネット上の掲示板やツイッターの「クラスタ」が、リーダー格がほとんどの場合、反社会性人格障碍を大いに疑わせる言動になり、そこに依存性人格障碍を大いに危惧すべき人たちがたむろする、そういう集団の結束が極端に(しかし刹那的に)強いのかはよく分かる。

依存性人格障碍者が、自分が実は「自分がない」状態であることへの潜在的で無自覚なコンプレックスも作用して、反社会性人格障碍の人間を依存先に選びがちであることは、人格障碍をめぐる研究ではもう語り尽くされているような病理だからだ。

いわゆる「マインドコントロール」「洗脳」の状態と言ってもいいだろう。

ついこないだまで、僕自身がそういう事象に遭遇したら、「もう精神科に行ったら?ネットじゃ無理だし」とサジを投げて来たわけだが、これもいささか無責任な話だったか、と反省している。

むしろネット上という特殊環境であることは勘案すべきとはいえ、ここまでそんなのばっかり、それこそネットを利用して広がる運動の類いがすべてこの反社会性や自己愛性人格障碍の周囲に依存性を大いに疑わせる人たちが集まるパターンを、反原発デモでも、極右排外主義でも、あるいはその「ヘイトスピーチ」のデモに対抗するはずの集団でも、いずれも完璧になぞってしまっているのを見ると、これはもはや精神科医に任せて済む問題ではない。

洗脳されたマインドコントロール集団と言っても差し支えない状態が、こうも簡単に産まれるのを度々目撃してしまえば、こと日本の場合はほんの70年前の戦争のこともあり、警戒したくなるのは当然だろう。

潜在的な人格障碍の蔓延を、日本という社会全体の問題として考えなければならないのではないか?

しかし困ったね。「サイコパスは治らない、治せないよ」と信頼している精神科の先生には言われたのだが…じゃあどうすんの? 
なにが出来るの?

いやなんと言ったって、内閣総理大臣がどうみても「この人、人格障碍あるでしょう?そうでなければこの言動は説明出来ない」という人なのだから。


体調不良で辞任するって、それを元気な顔で記者会見しちゃったのはまだ、一回は世間知らずで子どもっぽい行動をしてしまっただけで、そこで「お腹が痛いからやめました」とさんざん揶揄されたのだし、そこで少しは考えるだろうに…ところが「おかげさまですっかり元気になりました」でいけしゃーしゃーと現役復帰。

まさに「え?なんでこうなるの?」とキョトンとしてしまうところだ。そして行動が妙に子どもっぽい。

文字通り自分の責任という感覚が、なぜかすっぽり抜け落ちている。深刻さが理解出来ていないようにしか見えず、妙に無責任。

原爆忌のスピーチで未認定原爆症問題に触れたのはいいが、「専門家に検討を急がせる」。一人あたり国民所得を10年で150万増やす、と公約しながらどうやってやるかを問われたら「70年代80年代の日本人に出来たことが、今の日本人に出来ないわけがない」。原発事故についてデータや技術上の具体的な話は一切なく「私の政府が総力をあげて」約束するんだそうだ。

ますます「え?なんでこうなるの?」とキョトンとしてしまう。そして妙に子どもっぽい。



またそんなサイコパスっぽい総理大臣が、なぜか高支持率なんだから、ヒトラーもやっぱりサイコパスで、12年間支持したドイツ国民も病んでいたのかも知れない。

いや今の日本だって、その内閣総理大臣が先頭に立ってメディアも政界も加担する、尖閣諸島問題を言い訳にした中国敵視とか、韓国に露骨に歴史修正主義をぶつけて怒らせるとか、当然の反発を受けたら内輪でしか通用しない「反日」だとか言っているのは、もはや国家規模で人格障碍なんじゃないか、という比喩まで成立してしまう。

これは右翼とか左翼とかいうイデオロギー以前の問題だ。

保守主義なら保守主義の歴史観でも、それが他国/他人に通用するだけの説得力が必要だ、という認識自体が抜け落ちているのが、今の日本に蔓延する歴史修正主義の大きな問題だ。しかもそれが当然ながら他人様相手には通用しないとなると、通用するように説得力を増す努力なり工夫をするのでもなく、とたんに「反日だ」というレッテル貼りで、実は自分たちの内輪に引きこもってしまっている。

「もう謝ったじゃないか」「こんなに経済援助したじゃないか」「公文書には強制した命令書がない」等々、これで相手が納得すると思うのだろうか?右翼愛国主義の主張にしては、一応サムライの国のはずが、あまりにみっともない。

「え?なんでこうなるの?」という感じで、会話や対話がまったく成立していない。

外相会談で韓国側に「今さら具体的に言わないでも、なんのことか十分にご承知でしょうが」と大人の余裕でイヤミを言われても、外務大臣はしどろもどろな子どもの遣い状態になり、国内の大臣は逆ギレするだけ。

まさに「え?なんでこうなるの?」である。そして妙に子どもっぽい。

国連事務総長が「正しい歴史(認識)が、良き国家関係を維持する。日本の政治指導者には深い省察と、国際的な未来を見通す展望が必要だ」と発言すると、「中国より、韓国よりだ」と子どものように駄々をこね、国連総会で説明する、とまで妙に威勢がよかったのが、国際的に誰にも相手にされないと分かると、もう自分たちで忘れたかのよう、まるでなにごともなかったかのように振る舞っている。

若々しいとか純粋と言うのではなく、妙に子どもっぽい。

そしてやってることに一貫性がなく行き当たりばったりであることに、本人たちが気づいていない。

震災や原発事故の被災者への対応でも同じだ。都合のいいときは「絆」を語り、「被災者を励ます復興支援のオリンピック」、だがそこに他人様の認識がないから、「東京は250Km離れているから安全です」となる。

まさに被災者という「他人様」の存在の認識が欠如しているとしか思えない。

「え?なんでこうなるの?」

「フクシマの人たちのため」と言いつつ、うっかり「たかが電気のために」と一度言ってしまっただけならいい、その言い方はあまりに無神経だったと気づきさえすれば。

だが誤解された誤解されたとだけ言い続け、誤解ではなく言いたいことは伝わっていても、その言い方はやはりひどいと言われていることに気づけなければ、やはり正常に他人様との関係を認識出来ているとは言い難い。

デモの演説で一回、「たかが電気のため」を言ってしまった坂本龍一さんは、確かに「たかが電気」であるのは間違いないのだが、その「たかが電気」のために原発立地を搾取して来た側がみだりに言っていいことではなかったと、すぐに気づいていましたよ。 
ところが「周囲」はそうは反応しなかった。
福一事故で避難させられた人にしてみれば、ただの「たかが電気」でなく「たかがこんな下らない人たちのための電気だった」になるのだが。

「え?なんでこうなるの?」とキョトンとしてしまうところだ。若々しいとか純粋と言うのではなく、妙に子どもっぽい、まるでただの駄々っ子だ。

反省というものがまったくない。信奉しているはずのなにかの理念や信念と、自分自身を照らし合わせる、という作業がまったくない。実は「ボク悪くないもん」しか動機がないのかも知れない。

もはや人格障碍なんて精神医学用語を使うべきではないのかも知れない。「病気なんだ。こんな悪口を言うのは差別だ!」と言い出す逃げ道を与えるだけになりそうだし。

なんせ無自覚で無意識にやってることが病的とはいえ、ただのわがままではないか。

要は「他人様」のいない世界観という、誤って歪んだ認識と意識の構造にどっぷり浸かって、平気で噓をつきながら、自分達で「噓じゃない、噓じゃない」「ボク(たち)間違ってないもん」と相互マスターベーションで自分達どうしだけで依存しあってる、ハタ目には極めて気持ち悪い集団主義に、この国は陥ってしまっているのかも知れない。

ここまで書いていても、かなりの部分の人が、自分達がまさにその状態であることに気づかず「ああ、あいつらが」と思い当たるフシがあると納得するだけで終わるのかも知れない。

あるいは自分が論理的に逃れようがない話と気づけば書いた本人を貶めることで議論を無効化することに熱中するしかない状態になるのだろう。

いやだから、それ人格障碍の疑いがありますよ

9/15/2013

「『キチガイ』と言うことが差別になる」のか?


まずはっきりさせて置こう。

現代の日本で「差別に反対」という際にすぐ出て来るいわゆる言葉狩り、ある言葉を「差別語」と断じてそれを用いることを差別とみなすこと、その語彙を社会から排除することは、まずなによりも差別に反対する理論的文脈からして、完全に間違っている。

未だにこんなことから説明しなければならないのも馬鹿馬鹿しいのだが、差別とは意識の問題であり、ある発言やそこで用いられた語が差別の表出になるのかどうかは、差別的な認識と意識の構造を反映した文脈の問題で判断するものだ

その意味で、「『キチガイ』と言うことが差別になる」という文章は、ただの間違いだ。

「言葉を禁じるのは冒涜」とか「日本語の表現が貧しくなる」とか云々の倒錯、挙げ句に「逆差別」なるキチガイじみた意味不明語を持ち出す必要はまったくない。言葉狩りはそもそも差別を減らすことになんの意味もない。むしろ結果論として、差別する側にいいわけの逃げ道を与え、差別する側だけが隠蔽出来たと思い込む倒錯の偽善のなかに差別を固定化させ悪質化させる効果しかない。

だから「『キチガイ』と言うことが差別になる」という文章は、それを問うこと自体が誤った命題であるだけではない。

差別的な意識・認識や動機が問われるべきところ、「差別語を使っていないからこれは差別ではない」という薄っぺらな誤摩化しで、明らかな差別的な発言を許す口実を与えてしまう、悪影響があまりに大きいのだ。

ただどうもこれだけで済ましてしまうと、世の中には分かり易い論理倒錯の詭弁にすぐ走る、頭があまりよくない人が多いらしい。

ちなみにここで『白痴』という言葉を用いたら差別になるのかどうかは、かなり微妙な問題になるので、言わないでおく。「白痴」という語の意味をどう定義づけているのかどうかで、話が変わって来るからだ。僕が理解している意味での「白痴」であれば、差別かどうか以前にまず不適切で、意味が合っていない。

「『キチガイ』と言うことが差別」とは言えないからと言って、それだけでは「『キチガイ』と言ったって差別じゃないんだ」ということには絶対にならないに決まっているだろうに

十分条件と必要条件の違いも分かってない倒錯論理で「ワタシは論理的だ」と本気で言い張るキチガイが多いんだから、まったく困ったもんである。

そんなキチガイな人たちがどうも増殖し易いのが今の日本のネット環境であり、そんなキチガイじみた人に限ってキチガイ予備軍の子分が集まって徒党を組む結果、実際には「キチガイ」という語が発せられる際の論理構造が、今の日本のことネット言論では、だいたい8~9割くらいの見当で差別的…というか露骨な差別意識の発露になっている

断っておくが、まず「キチガイ」イコール精神障害者への差別ということには本来はならないし、いわゆる差別語が発せられるとそれに該当する無関係のマイノリティが無条件に「傷つく」から差別だ、という論理自体が、まあなんというか、お話として「狂って」いる。

そこで「傷つく」方が本来ならおかしいのだが、万が一傷つくとすればそれは精神障碍や疾患を「キチガイ」とみなし差別する社会構造や価値観を患者自身が内面化してしまっているわけで、これではその患者をみだりに責めるわけにも行かず、解消が極めて難しい自己差別の問題になる。 
こういう場合の基本は、やはり自己差別は差別が厳然と存在するこの社会の結果起こることで、その意味では自分や自分を含むマイノリティ集団を差別してしまう被差別者はやはり犠牲者であり被害者であり、自己差別とは差別が与える被害の最たるもののひとつなのだ。 
だがだからと言って「被害者だから責任はない」とも決して言えない。自立した個である限り、その自立した個を守ることなしに差別と戦うことにはならない、それを自分が阻害している自己差別は、自分で克服する責任が、自分自身に対してある。最終的には、自分にしかそれは出来ないのだから。

「『キチガイ』と言うことが差別になる」が論理的に誤っている、それが差別になるとは言えないのは、「キチガイ」という語の持つ意味が精神疾患や精神障碍の定義と一致するわけがない、むしろ現代の日本語ではかなり異なっているからであり、つまりは「精神障碍者」「精神疾患の患者である」イコール「キチガイ」とみなすことこそが、むしろ明らかな精神障碍および疾患への差別であるからだ。

つまり精神疾患や障碍があってもキチガイではない人もゴマンといれば、精神疾患などの診断が下りるはずもないキチガイはもっとたくさんいるし、精神疾患がありかつキチガイでもあるがそのキチガイ性が疾患の症状ではない人もいるのである。この定義のズレを無視してしまうことこそが、本質的に差別的なのだ。

たとえば秋葉原無差別殺傷事件の加藤智大被告が「キチガイ」かどうかも議論の余地が実はあるが、彼の犯行が狂気としか思えないとは言えるにせよ、検察側が自ら早々に精神鑑定をやらせた結果でも、精神障碍や疾患の類いはやはり見つかっていない。彼が犯行に至った認識にも意識にも、精神医学で「病」とみなす歪みがないのは最初からだいたい分かっていた。 
智大君が「キチガイ」であるかどうかはむしろ「全員がキチガイの村では、まともな人間がキチガイ扱いされる」的な視点において、つまり彼が怒り絶望した現代の日本社会の方が狂っているのではないか、という議論の方が重要だ。

これがいわゆる「言葉狩り」「差別語」の本質的な問題のひとつであり、僕が言葉狩りに断固反対であるのは、他人様に向かって「キチガイ」と言いたくてしょうがない輩の自称「言論の自由」を守ると言うキチガイじみて身勝手な理由とはまったく関係がない。

言葉狩りが差別がそこにあることの認識を歪め、差別する側に下らないへ理屈と姑息な誤摩化しによる逃げを許し、むしろ差別を隠蔽かつ悪質化させるから賛成出来ないのだ。

これは最初は良心的な怒りだったはずの「反レイシズム運動」だったものが、ただの軽薄な付和雷同の流行になり、相対的な自己正当化に耽溺する人たち(=「キチガイ」と他人様に言いたくてしょうがないキチガイな人たち)によって「反レイシスト」というただのファッショに堕落しつつある運動ごっこについても言える批判だ。 
そもそも彼らは「ヘイトスピーチ」の定義の認識が間違っているのも問題なのだが、彼らのいう「ヘイトスピーチを許さない」は結局「言葉狩り」の病理の再現でしかない。 
その彼らが「ヘイトスピーチ」とご都合主義で決めたものを排除したところで、日本の在日コリアン差別や朝鮮民族差別の問題にかすりもしないし、すでに「言葉狩り」が差別の隠蔽による悪質化につながり、「差別語」を使わなければ差別したことにならないというマジョリティ側の身勝手な俺様ルールによる差別の正当化まで誘導してしまった過去を鑑みれば、警戒するのがまともな人間というものだ。

そして繰り返しておくが、「『キチガイ』と言うことが差別」は間違いであるが、実際には「キチガイ」という語が発せられるのは8割以上が差別的な動機によるものであり、そうした発言は明らかに差別発言だ

現にさんざん起こっていることだが、言葉狩りが理論的に誤りであるだけでなく、実際に問題があり過ぎる、その禍根のひとつが、「キチガイ」が差別語として禁じられた結果、蔓延したのが言い換え語であることだ。

たとえば「精神障碍」「精神障碍者」は、現代の日本では極めて多くの場合、「キチガイ」の言い換え・代用語として使われている。

では「精神障碍」もよろしくないから禁じよう、みたいな話になると、今度は「アスペルガー障碍」だとかがキチガイの言い換え語にされてしまい、発達障碍のある人が犯罪者予備軍であると誤解した差別と偏見がますます蔓延してしまう。

ここに一貫してあるのは精神疾患や先天的な脳の機能の欠陥と、とりあえずこう言っておくが、むしろ社会が求める標準からの偏差ともいえ、社会の側の問題も無視出来ないに対する根深く無自覚な差別意識であり、精神を病んでいる=「キチガイ」であり蔑視ないし危険視の対象と思ってしまっていることの犯罪的な誤りだ。

そして多くの場合、「キチガイ」と言う語は、相手を精神疾患や精神障碍とみなして自分の下位に置き、その言動を非合理的かつ不当に無効化して自分の(その実なんの根拠もない)優位を担保しようとする動機で発せられている。言い換え語としての「精神障碍」「精神障碍者」「アスペルガー」なども同様だ。

故に多くの「キチガイ」発言は明らかに精神疾患や精神障碍に対する露骨な差別意識を前提にしている差別発言であり、また自分の気に入らない相手を下位に貶めようとする動機が、意見が合わない、気に食わない等々のキチガイじみて自己中心的な理由だけで「キチガイ」呼ばわりしている意味で相手に対して根本的に差別的であり(惜しむらくは一方的に差別出来ているつもりが、相手からは差別でもなんでもなくただバカにされるだけ)、つまりは何重もの意味で差別意識丸出しの、恥知らずで、身勝手で、しかも論理的に倒錯している、つまりはキチガイじみた差別意識が丸出しな発言だ。

よく見ていれば帰納法と演繹法が、他者性の認識が欠如した幼稚さの、自己閉塞した身勝手で混同された結果の、分かり易い論理倒錯の誤謬、つまりキチガイというかただのバカの言い草なのだが、なぜこんなキチガイじみた論理倒錯が大手を振って今の日本社会に蔓延しているのか、理由は複合的なものだろう。

第一に今の日本社会に蔓延する価値観が、子どもの時分にまず接する教育の現場からして、差別やいじめが大好きな人間を増長させたり、そういう動機を多くの人の心理に植え付けてしまう、キチガイじみたものであることが挙げられるが、これはこのブログで以前にも差別いじめの問題で取り上げて来たことなので、今回は割愛する。

もうひとつは、第一の理由とかなり関連するものだが、「正しさ」ということに関する価値観が歪んでいる、そもそも正義や悪は絶対概念とまでは言わないまでも、人間関係の相対性で計れるものではない、ということが、これまた教育の現場がキチガイじみた倒錯に陥っている結果、ちゃんと教えられていないことだ。

「正しさ」とは本来、我々個々人に外在する、本質的に他者的な概念であって、我々は正しさを目指すことは出来るし、個々の問題において「正しく」あることまでは可能だが、それはその場で自分が行っていること、言っていることが正しいだけであって、決して「ボクが正しい」とはならないはずだ。

まして相手が間違っている、「キチガイ」であることを指摘したところで、それは単に相手がそうである事実が指摘されているだけであって、「よってボクは正しいのだ」なんてことを意味するわけがない。そこが分かってないキチガイが多過ぎるのである。

だがこと「キチガイ」という言葉に関する限り、やはりあまりに被害の深刻な、最大の問題として、「精神疾患/障碍」=「キチガイ」とみなす差別意識があまりに根深く社会に蔓延してしまった結果、「キチガイ」という概念に関して我々があまりに狭量であり、精神疾患や障碍に関してあまりにも無理解なままタブー視してしまっている現状がある。

これは精神医療の現場で巨大な問題を引き起こしている。

ただでさえ精神疾患の多くで、典型的な症状には否認が含まれる。自分が病んでいるのだということは、大雑把に二つの理由でなかなか本人には認識しにくいのだ。

第一に、人間の認識は最終的には主観認識に収斂される。社会的な生物としての人間は成長の過程で他者と自分との根源的な差異の認識を獲得(つまり他人様は他人様、自分の思い通りにならないのが当たり前と悟る)し、その他者から見た自分を想定し自己を客体化するようシミュレーション出来るようになることで「大人」としての人格に到達するのだが、とはいえそこまで考えているのだって最終的には自分の脳が感じて考えている活動だ。

他人が自分に対して言うことを謙虚に聞く人間であろうと心がけるつもりでも、それを実践したつもりであると認識しているのだって最終的には自分だし、他人に言われたことの内容だって自分で勝手に解釈している可能性は排除出来ない。つまり、人間はやはり最終的には無意識に自分自身を標準とみなし、そことの差異で価値などを判断してしまう動物であり、だから自分がおかしいということは、なかなか認識出来なくなりがちなのだ。

こと精神疾患で認識の機能が損なわれている場合、これはますます極端になる。だから多くの精神疾患では、そもそも原理的に病識を持つことが難しくなる。

なおこの区分けは、議論を分かり易くするためにあえて単純化しているわけで、実際には次に挙げる理由も第一の理由と渾然一体となっている場合が多い。

で、その第二の理由だが、社会的な自己防御反応だ。「自分がおかしい」と自己認識することは、社会生活が営めなくなり孤立する恐怖を必然的に内包する。だから本当は心のどこかで「なにかおかしい」と気づいていても、それを無意識に押し込めようとしてしまうことは避けられない。

もうお分かりだろう。

「精神疾患/障碍」=「キチガイ」とみなす差別意識があまりに根深く社会に蔓延してしまっていると、この第二の理由による否認の動機が必然的に増大する。自分が「キチガイ」とみなされ差別される恐怖が、どうしたって避けられないのだから、しかも疾患で認識が歪んでいる患者なんだからしょうがない。だから多くの患者は、自分の精神が病んでいるのだとの認識を死活問題のように思い込んで忌避し、ほとんど命がけで否認に固執し、病がますます悪化するどころか、別の精神疾患すら引き起こすこともあり得る。

そんな偏見の禍根があまりに大きい結果、日本の精神医療の現場はますます困難になるし、そうなると優秀で頭がいい人材ほど、よほどの物好きかお人好しでない限りは精神科医になろうと思わない。結果として知的能力の面でも倫理観でもまさにロクデモナイ医学生に限って精神科になりがちであり、なにしろ頭が悪く観察力がなければ、ただでさえ難しい精神医療の現場で、まともな診断は下せないし、性格も悪いから患者に対する無自覚な差別意識の優越感に浸るキチガイぶりを発揮されればますます病を悪化させかねないし、行き着くところは、これまた最近まで認知行動療法つまりちゃんと患者の話を聞く、その話す内容から問題をつまびらかにして行く、という作業が健康保険の適用対象でなかった、つまりちゃんと精神科の診断や本来の治療をやっていると儲からなかったキチガイじみた制度のせいもあり、どんどん薬漬けばかりが進むというまことキチガイじみた状況になってしまう…じゃなかった、現にかなりそうなっている。

しかも「自分は病気だ」といえば弱者扱いでそれなりにチヤホヤされることに気づいてしまう患者の場合、この否認は極めて歪んだ方向に暴走し、それが薬漬けをやっていれば儲かるし弱者の患者を見下しながら助けている気分で優越感に浸れるロクデモナイ医者側の経済的利潤や身勝手とも利害が合致して、ますます危険な状況まで産まれている。

確かに、最終的に、精神疾患は脳内などの神経物質の分泌異常に理論的に還元されるわけだが、それはそもそも私たちの精神活動が、突き詰めれば脳内などの神経物質の分泌の結果で起こっていることだからでしかない。「病気」と言った途端に突然神経物質の分泌の話になる、病気だけが神経物質の分泌の問題なのだと思い込む区分け自体が、キチガイなのだ 
投薬治療はその崩れた分泌のバランスを一時的に、無理矢理に修正することでしかなく、最終的にはその分泌異常を出来る限り自律的に制御できるよう回復しなければ、今度はその向精神薬などの依存症にだってなり得る。 
精神科の治療の本質は、あくまでカウンセリングでその人の精神の活動の問題点を修正し、出来る限り自律的に脳内などの神経物質の分泌のバランスを回復することが基本だ。薬物は補助的な役割か、緊急手段でしかない。

日本の精神医療の大部分の現状はこのように、こうなるとどっちが患者でどっちが医者か分からないよ、というまさにキチガイじみた世界になりかねないわけで、つまりここで挙げたロクデモない医学生転じてロクデモない精神科医モデルや、そことくっつくのが楽な治る気のない倒錯患者モデルは、比喩的に言ってしまえば依存症のメカニズムのドツボに嵌っていることにもなる。

…っていうか最近適用されている広義の依存症そのものだったりする。

ちなみに例えばDVも、現代の精神医学では広義の依存症、対人関係依存に分類されるし、上記の甘ったれた勘違いに耽溺する患者と、同じような甘ったれた勘違いの歪んだ自己愛を抱えたロクデモナイ医師の関係は、場合によっては露骨に共依存にすらなりかねない。

こんな精神医療の現状では、数少ないまともな先生こそ大変になってしまうわけで、しかもさっき言った「キチガイ」と決めつけて相手を差別する自己撞着でしかない病理が蔓延する第一の理由の通り、とにかくキチガイと化した多数派が自分たちと違うというだけで少数派を叩きがちであり、しかもその少数派の方が優秀となればますます憎悪を逞しくするキチガイなマジョリティが多いのだから、数少ないまともな先生こそその真面目さ故に過剰にストレスを溜め込んで、親メランコリー性気質の(つまり真面目で責任感の強い人がなりがちな、いわゆる古典的なケースの)鬱病になってしまったりする。

この抜本解決は、やはり社会全体に蔓延している誤った価値観や認識を糾すことでしか改善しようがないと思う(と正論の極論ですぐ問題の核心や根っこを正せばいいのだ、と思ってしまうのが、この筆者のキチガイじみたところです)。

まず精神疾患や精神障碍の意味での「キチガイ」ならば、脳や精神の機能がなんらかの部分で「健常」な状態と比較してなんらかのズレがある、精神疾患や障害などの傾向がある故に「キチガイ」的な人間と言うのならば、あらゆる人間がそうであり、完全にまともな人間がいたらその方がキチガイじみている、ということだ。

これがフロイトが精神分析を始めて以来、その歴史には多々間違いがあったにせよ、その間違いを見つけては正しながら曲がりなりにも現代の精神医学に至っている歴史の最初から、フロイトが真っ先に言っている大前提であり、そもそも大なり小なり精神が「狂って」いない人間なんていないのである。

そのどこか大なり小なり狂っているかも知れない自分に、自分なりの折り合いを見つけることこそが、「人間が人間として生きる」ということなのだ。精神医療が出来るのは、最終的にはその手助けでしかない。

なおこれは、実は精神医学に限った話ではない。結局どんな病気でも、治る気がない患者相手では医者はお手上げである。

またより広義の「キチガイ」の定義で言えば、それこそ大昔から世界中のことわざで言われていることとして、

「全員がキチガイの村では、まともな人間がキチガイ扱いされる」

このことについて、我々はあまりに忘れ過ぎてはいないだろうか?

それこそ全国民が「進め一億火の玉だ」と叫ぶ「キチガイ」の状態になり、冷静かつ現実的に考えればそもそも倫理的に間違っているだけでなく、戦略的に、リアリティの問題でうまく行くわけがない大陸進出やら朝鮮半島の植民地支配やらにキチガイじみて熱中し、挙げ句にあれだけ人口・面積比があれば支配なんて出来っこない中国大陸までキチガイ丸出しに侵略したがり、それがうまく行かないと、まともな人間ならばさすがに立ち止まって「これはヤバいんじゃないか」と思うべきところ、さらにキチガイじみた対米戦争まで始め、1942年のミッドウェイ海戦の時点ともなればさすがに「こりゃ勝てっこない」と気づくべきなのに、また思いっきり自己撞着なキチガイっぷり丸出しに、噓なのが分かっている大本営発表にその大噓をついている側までがんじがらめになり、「そんなこと言ってるから勝てる戦も勝てないのだ、たるんどる、この非国民!」なんてキチガイ丸だしな出鱈目でまともな意見を抹殺し、その後3年もキチガイじみた戦争を続けて破滅寸前にまでなった過去を持つこの国だからこそ、「全員がキチガイの村では、まともな人間がキチガイ扱いされる」ことについて十分に注意深く慎重に自分を客観視すべきなのが、いつのまにか「日本はなにも悪くなかったんだ」「日本を悪く言うのは反日だからだ」なんてキチガイ村の内輪でしか通用しないキチガイの論理が幅を利かせる国になっているのが、今の日本ではないか。

だいたい朝鮮半島の植民地支配なんて、1930年代の半ばには破綻していたわけで、傷が広がり支配者側まで損害を被る前に、独立を認めて恩を売っておくでもしておいて、友好関係によって一定の影響力を維持する方が、(これも「コロニアリズムだ!」と批判すべきところではあるが)まだ遥かにキチガイでない現実的な考え方だろうに、それすら出来ずに「玉砕」などとキチガイじみたサド=マゾヒズムまで自国軍兵士(植民地の本来なら異民族も含む)に強要し、挙げ句にボロボロの敗戦で、旧植民地を分断国家にする禍根まで残した、植民地主義のモノ差しで見たって惨憺たるみっともない大失敗を自分達の内輪だけでは必死で無視して、朝鮮民族相手に威張り散らしたがる今の日本人なんざ、どこまでキチガイなんだよ、っていう話になる。

…と、ちょっとまともなことを言ったら、無自覚な極右ネオナチ化の進むキチガイ村の住人たちが「こいつはキチガイだ」とか「反日だ」とか叩いて必死に差別したがる、キチガイなマジョリティ様が必死でこちらの言葉を封じようとするわけである。極めて分かり易い差別の構造なわけだ。

ちなみに「傷が広がり支配者側まで損害を被る前に、独立を認めて恩を売っておくでもしておいて、友好関係によって一定の影響力を維持する」とは、つまりアメリカ合衆国が占領した戦後の日本に対して巧妙にやってのけたことである。 
大都市を片っ端から大空襲に、原爆二発まで落とした相手国に、これだけ巧妙にやってのけるのだから、さすがにおよそキチガイとは言い難い狡猾さだ。表向きは自由と民主主義と民族自決というタテマエをちゃんと偽装しながら、ちゃんと得るものは得てしまう実は植民地宗主国というのは極めてムカつくし、これも「コロニアリズムだ!」と批判すべきところではあるにせよ、まあ、たいしたもんだ(←岩手弁)。 
さてこれでも、かつての日本が身の程知らずの背伸びの野望でトチ狂ったキチガイでなかったと、言えるんですかね?

もうひとつ「キチガイ」について言っておけば、「キチガイ」という語にもはや脊髄反射でヒステリックな「差別だ」と声があがるほど言葉狩りの誤謬が刷り込まれ、そのキチガイっぷりの反動として、言葉狩りの誤謬を理論的に考察するわけでもなく、ただのちゃぶ台返しで「『キチガイ』と言ったって差別ではない」と絶叫する、よりキチガイな人々まで出て来る、まことキチガイじみた状況が蔓延する以前、「キチガイ」とは遥かに豊かな意味の広がりのある語だった。

つまり「キチガイ」という語にもはや脊髄反射で「差別だ」「差別じゃない」と言い出すキチガイがいっぱいいる現状を百も承知で、確信犯の半ば以上ブラックユーモアでここまで「キチガイ」を連発しながら、そこに一切の差別性のある「キチガイ」という語の使用はないという妙なマニエリズムまで徹底してしまう、という悪ふざけを大真面目でやっているのは、これまで繰り返した「キチガイ」とは別の意味で、明らかにキチガイじみた言動なのである。

そう、キチガイには本来、常軌を逸している、常人離れした発想をする、並外れて頑固だったり強靭だったりするオリジナルな個性や、ものごとを妥協のなさ過ぎに徹底してやってしまう精神、という意味もあった。

 大島渚『絞死刑』

例えば、60年代の大島渚の映画はどんどんキチガイじみて行ったし、『絞死刑』や『帰って来たヨッパライ』となるともうほんとキチガイ映画だし、さていよいよ日本での映画の経済状況が悪くなったら、フランスのアナトール・ドーマンというキチガイなプロデューサーが「オオシマ、俺が金を出すからポルノを撮らないか」と明らかにキチガイなことを言い、それを「僕はスキャンダルが大好きなんだよ」というまさにマジキチな理由で喜んで受けてしまい、日本では刑法175条にひっかかって逮捕すらされるリスクを百も承知で、なのに官憲がヒステリックにキチガイじみた反応をするよう挑発するかのように、わざわざ話題性まで盛り上げて『愛のコリーダ』を撮っちゃった大島さんは、明らかにキチガイだった。

 『帰って来たヨッパライ』予告編

つまり「キチガイ」は文脈によっては褒め言葉でもあり得たのが、日本語の本来なのだ。いや日本語の本来かどうか以前に、それが「狂気」の超越性をめぐる本来の社会的生物としての認識なのだ。

だからって相手を貶める意図で「キチガイ」と言っておきながら、責められたら「キチガイ」は褒め言葉でもあり得るなんて言い出す幼稚な詭弁は通用するはずがないので、褒め言葉でなくキチガイ、重度の差別キチガイでしかもキチガイじみて姑息な皆さんは、ご注意下さい。

もっと言えば、「全員がキチガイの村では、まともな人間がキチガイ扱いされる」の逆説として、ドストエフスキーの『白痴』もそうだしある意味で『罪と罰』もそうであり、古代神話や昔ばなし、民間伝承まで遡れば、キチガイ、狂気を持った存在だからこそ、人間の世の中の矛盾や不正を突く、キチガイ=神、の説話構造は、人類が大昔からの知恵として持って来たものである。

自分たちが誰でも大なり小なりキチガイであり得る、人間は正義について考え、正義を信じ、正義を実践しようとすることは出来るが、自分達自身が正義そのものだと勘違いすることこそ最大の危険なキチガイなのだという自戒を、賢くまともな人間たちは大昔からちゃんと考えて来たのである。

その意味でも、ただある言葉を差別語と決める表層だけの言葉狩りは無意味なのであり、差別語認定こそキチガイじみた倒錯であり、それも現実の人間社会とその限界性を無視した、傲慢な倒錯なのだ。

だから「『キチガイ』と言うことは差別になるのか?」という問題設定自体が実は倒錯であり、無意味なのだ。こういうことを言っているのはまさに、悪い方の意味でキチガイなのだ(いや、ただのバカと言った方が正確ではある)。

そして再三繰り返すが、「『キチガイ』と言うことが差別になる」が間違いだからといって、「だから『キチガイ』と言っても差別ではない!」と言い張るのは、ただの内輪の自己撞着した身勝手に倒錯したキチガイのへ理屈であるだけではない。

姑息な差別野郎の下手な言い訳だ。