最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品

3/13/2014

3.11、あれから3年


10日まで新作『ほんの少しだけでも愛を』の編集でタイのバンコクに居たのだが、帰って来た翌日にはやはり三周年ということで、去年、一昨年に引き続き、いわき市の泉駅からほど近い富岡町の仮設住宅の慰霊祭にお参りさせてもらって来た。


あれからもう3年、という言葉の意味合いは被災者と、東京から顔を出す程度の我々とではもちろん、今では普通のいわき市民にとってすら、大きく異なって来ている。

東京はけっきょく、当日に電車が止まって帰宅するにも困ったのと、その後1、2週間は電力の問題で交通網がなかなか回復しなかった程度のこと。反原発デモも一時はブームになったが、過ぎてみれば何も変わらず、震災前の生活が戻り、これだけ恵まれている大都市のはずなのに、なぜか我々はちっとも幸福を感じていない

当初は「兵糧攻め」とまで言われ物資の流通もおぼつかなかたいわき市も、今ではむしろ “復興特需” で栄えている面さえある。なにしろ福島第一原発それ自体も含め、20km圏内の復旧工事や除染など、ほとんどのベースはいわき市だ。宿がとりにくいのはこの3年間ずっとだし、全国から集まった作業の人たちで不動産の値段も上がり、飲食店などのサービス業や小売りも順調だ。

だが仮設や借り上げ住宅で暮し続ける人たちは、まったく違う。


手狭で不便な仮設になかなか慣れない、非日常が日常になったままに、最初から急普請の安普請だし昨年の今ごろにはもうガタが来始め、若い世代を中心に、もう諦め、覚悟を決めて自らいわきに家を構える人も少なくない。ぶらぶらしているわけにも行かないから仕事を見つけてしまえば、その勤めはいわき市に住み続けた方が便利ということにもなるし、一方で仮設の次の段階のはずの復興住宅は、建設用地の目処すら立たないのがほとんどだ。


小名浜に復興住宅のモデルハウスができたという。だが「結構だね。で、どこに出来るのこれ?」で話は終わってしまう。

3回目の慰霊祭に仮設住宅の集会所に向かうのは、いささか複雑な気分になる。1年ぶりにお会いする人も多く、こういう機会でもなければなかなか顔も出さないようになってしまったのは、いささか心苦しい(映画の撮影が続編の『…そして、春』も終わっているのだから、どうしてもそうなってしまうのだが)。

いやだがなによりも困るのは、

「仮設住宅って確か、2年と決まってたはずですよね」

三周年の慰霊祭ということは、その2年はもう過ぎてしまった。「でも来年もまだここだよ。慰霊祭が出来るかどうかは分からないけどね。今年で終わりかも知れないね」


若い人がだんだん減って行き、仮設ははっきり言えば、文字通り姥棄て山になりつつある、という人すらいる(1年目に書かれていた佐藤紫華子さんの詩集『原発難民の詩』にはすでに「仮設という姥棄て山」という作品があった)。そして空いた仮設には、埼玉に避難していた双葉町の人たちなど、いわきに居住を希望する他の町の人たちを入れる話もあるらしい。

なにも変わらない3年間のあいだに、徐々にいろんなことが崩れて来ている。それを防げるのはただ、皆さんの意思と精神の強靭さだけだ。双葉郡の人たちは強いし、明るい。でもそれにも限界はある。いや3年も経ってしまえば、もう限界のギリギリかもしれない。


3年も経ってしまうと、当事者にとってさえ慰霊の儀式自体は淡々としたものになる。

この日にも、慰霊祭には顔を出さずに壊れてしまった仮設の一部の修理工事をやっている人たちもいた。

駐車場の一部がネットで区切られ、子どもたちの遊び場に改造されている。そこで元気な声が響くのも、いつも通りなのだろう。


これも被災者の皆さんと “その他の日本” が決定的に違うことなのだろう。三周年の記念日は、当事者にとってひとつの区切りでしかなく、日常になってしまった非日常は続く。だがその他の日本全国では、この日だけが被災者のことを思い出す日になってしまっている。

その被災者が直面する問題として報道される内容が、実は昨年となにも変わっていないことにすら、私たちは平然と無頓着で居られる。

なにも変わっていないこと自体が、恐ろしいことなのに。


総理大臣は現場も見ず声も聞かないまま、口先だけ「復興は進んでいる」と言った。いやこの人の場合、本気でそう思い込んでいる、そして自分の思い込みに反する現実はいっさい視野に入らないか、「反日プロパガンダ」「サヨクのマスコミが」かなにかに見えてしまうらしいのだから、なんとオメデタイというか、始末に負えない。


除染の中間処理施設の建設を急ぎ復興に弾みを、と首相は言うが、除染はいったん線量が下がってもすぐ元に戻る、実際には風雨や日中の時間帯だけでも変動が激しいことは地元の人はもうイヤというほど分かっているし、こと原発の直近地域では、そんなに多量ではないとはいえまだ放射性セシウムは福一の原子炉から放出されている。

すべてが実は「税金の無駄」、「やってます」というためのポーズに過ぎないことは、分かる人間が見れば分かってしまう。「田舎」と決めつけてなめてはいけない、避難させられている人たちこそが皆、ちゃんと「分かる人間」ばかりなのだ。


賠償の問題は帰還困難区域だけはなんとか然るべき補償の目処がやっと立ちつつあるのだが、困るのは居住制限や避難解除準備区域だ。

富岡町の場合、この区分けのやり直しがあってそろそろ1年だが、もっと前に決まっている楢葉町や南相馬の小高の「避難解除準備区域」だって、未だに宿泊すら出来ないまま1年も2年も経っているではないか。

これでは蛇の生殺しに等しい。ところがまだ実際の生活なんてなんの目処もないのに、固定資産税を復活することすら検討されている。

「もう無理だ」と諦めようにも、新しい生活を始めようにも、補償されるかどうかも分からない。いずれは「居住制限」が外れるかもしれない、いつかは「避難が解除になります(いつかは分かりませんが)」では、そんな土地を今さら買う人はいないから、売れもしない。

放射線値が低くても、それだけで生活が成立するわけではない。


このままでは、いずれ避難や居住制限が解除されても、あまりになにもない、「究極の田舎で都会の生活をしろという話」になってしまう。つまりは今政府などで考えている「復興」の構想はファンタジーに過ぎず、どだい無理なのだ。

そしてこうなってしまったのは原発事故のせい、つまり第一義的には東京電力の責任なのに、その当たり前の理屈も通らず、然るべき賠償も生活の補償もすべてが宙ぶらりん、今までの精神的負担に対する賠償分すら「合理的な理由」がなければ返還させられるかも知れない、という。またその「合理的」を判断するのが、賠償する側の東電であり政府なのだ。


こんな理不尽の最中に人を押し込めておいて、なにが「心の復興」だ。被災地の子供をオリンピックに招待するのがその目玉だなんて、人を馬鹿にするのもたいがいにしろ、と言いたくもなる。福島浜通りの人々は慎ましいので、そんな乱暴なことは口には出さないが、そう思っていてもおかしくない。


こんな状況がなにか変わらない限り、「心の復興」なんてあり得ない、安心して生きていくことなんて、できるはずもないではないか。

政府主催の慰霊祭は、安倍政権の体面を保つための見栄の行事として完全にお膳立てされているはずだった、だがそこで今は衆院議長を勤める京都選出の自民党の大古参、伊吹文明氏が唐突に、そんな欺瞞をひっくり返すことを追悼の挨拶として言った。

被災された方々、また福島での原子力発電所の事故により避難を余儀なくされた方々のお気持ちを思うとき、月並みなお見舞いの言葉を申し上げることすら憚られるのが率直な心境です。

今まで政府側でもメディアでも、支援のボランティアの多くさえ、誰もこれを言わなかっただけでも、考えて見たら日本という国と文化の在り方として、恐ろしく変な話である。まさに「月並みな」美辞麗句だけを並べて、実は被災地を放置して来たのが、この3年間の実態だ。

伊吹さんは

震災から3年が経過し、被災地以外では、大震災以前とほぼ変わらぬ日々の暮らしが営まれております。

と続け、被災地と「そこ以外の日本」の落差、実はなんの苦労もしなかった後者が、前者をもはや忘れがちであることに厳しい(自責も含めた)言葉を、あえて続けた。

電力を湯水の如く使い、物質的に快適な生活を当然のように送っていた我々一人一人の責任を、全て福島の被災者の方々に負わせてしまったのではないかという気持ちだけは持ち続けなりません。

この本来なら最初から肝に銘じるべきだった当たり前の気持ち、良心こそが、この3年間「そこ以外の日本」からまったく抜け落ちて来たのではないか?

この事故に懲りて原発政策を見直すべきだ、原発を止めるべきだと主張する人たちですら、この当たり前のことを考えるのを避けて来た。だから双葉郡や飯舘村の故郷を追われた人たちは、この3年間、風評や被曝差別に晒されるか、ほとんど無視されて来たのが本当だ。

だから黙祷の合図とその前の君が代斉唱だけはTVの生中継を頼りにしていた富岡町・泉玉露仮設の慰霊祭でも、黙祷が終わるとすぐにTVは消してしまい、浄土宗のお坊さん(北海道から車で来たという)によるご詠歌の卒塔婆供養に移った。


政治家の挨拶なんて聞いてもしょうがない、腹が立つだけだと、この2年、3年のあいだにみんな痛いほど分かっている。それだけに伊吹さんの、本来の「保守」ならではの言葉は貴重ではあったが、もう少し早く言って欲しかったと思わずにはいられない。

思えば、私たちの祖先は、自然の恵みである太陽と水のおかげで作物を育て、命をつないできました。 
それゆえ、自分たちではどうすることもできない自然への畏敬と、感謝という、謙虚さが受け継がれてきたのが日本人の心根、文化の根底にあったはずです。  
科学技術の進歩により、私たちの暮らしは確かに豊かになりましたが、他方で、人間が自然を支配できるという驕りが生じたのではないでしょうか。そのことが、核兵器による悲劇を生み、福島の原発事故を生んだのだと思います。 

伊吹文明衆院議長の「追悼の辞」全文はこちら http://blogos.com/article/82142/

今さら言われなくても、これがいちばんよく分かっているのが、元は農家であり漁民であった浜通りの、今原発事故に直面している人たちだ。

そしてそれは、この日本という豊かな国土が育んで来た、日本人本来の伝統の知恵だったはずだ。


だが現代の日本の権力中枢では、「田舎の百姓」の言うことなど、一切相手にしようとしない。そこではなにかとても大切なことが見失われている。

唐突に本来の「保守」の言葉を発した伊吹さんであるとか以外には、「保守」がこの国から消えてしまっている。

日本の中枢にいるのは自分たちでは「優秀なエリート」だと思っている人たちや、世界でもっとも豊かな国のひとつなのになぜか中国や韓国が脅威であるらしく、自分達の生活や利益よりもそうした隣国相手の下らないプライドごっこで「日本は一番だ」と言いたがる輩、どちらも恐ろしく幼稚で妙に子供っぽい者たちばかりが、政治や社会や経済を動かしている。

南蛮貿易で日本を訪れたルイス・フロイスら宣教師たちは、日本の教育水準の高さに賞賛を惜しまなかった。 
幕末の開国で日本に来たヨーロッパ人たちも、一般庶民レベルでほとんどが読み書きが出来るだけでなく、礼儀正しくおおらかで洗練された、人懐っこく親切な日本人の教養レベルに愕然とした。 
戦後まもなく「軍国主義に走ったのは教育水準が低いからに違いない」と信じ込んで日本に来たGHQも、まったく予想が外れていたことに驚愕した。 
日本は昔から、普通の人たちが他のどの国とも比較にならないくらい教養があり、文化的で、一般民衆のレベルが極度に高い国だった。 
それを支えたのはまさに伊吹さんが指摘した、日本人本来の謙虚と自然への畏怖、人間の驕りを厳しく律して来た文化伝統のはずだ。

だが近代化から140年、日本人はタガが外れた、傲慢で身勝手な人間中心主義、自己中心主義の国になってしまったことが、この震災の、「そこ以外の日本」の振る舞いで明らかになってしまったことなのかも知れない。

僕たちの映画(もう3年前の春の記録である)『無人地帯』の最後のナレーションは、あえてこう締めくくった。


“すべてが神”ではなく あらゆる物がそれぞれに神 
災害も 破壊ですら 神々のなせる業であり 
“すべてが神々” 
人間にとって幸となるのも不幸となるのも 
神々の力の結果を人がどう受け取るかの
深い謎であり続ける 
農民と漁師には分かっている 
この世界の謎めいた力と共に生きて 
同じ自然現象の恵みを受け 時に苦しめられて来た 
日本は侍の国ではない 
農民の国だった 
だが今は違う 
近代日本は西洋文明を崇拝し 
世界は私たち人間のために存在すると信じた 
そして原子力を選び 今は扱いきれていない 
もはや農民の国ではない 
ここを除いて… 
この人たちを残して…



富岡町の皆さんの慰霊祭は淡々と終わり、しばらくいろいろな人に挨拶したり話して、夜は知り合いの歯医者の先生(奥さんの実家が浪江)に連れられて、浪江の人がやっているいわき駅前の小料理屋「スプーン」で浪江の銘酒 “磐城壽” を飲みながらいろいろ魚を食べ、いわきの事情や、浪江のこと、今は山形県でこの酒を作り続けている鈴木酒造店の大輔さんのこと、今も福一で働くご主人夫妻の息子さんのことなどで、話に華が咲いた。


というか “磐城壽” はうますぎる酒なので飲み過ぎてしまい、いわきに一泊して、翌日にもう少し3年が経った今の様子を見て来ることに。


日本の現代の地方のご多分に漏れず、浜通りも自動車がないとなかなか不便なところだ。だがちょっと自分の健康状態からして車の運転は控えた方がよく、常磐線の各駅停車で行けるだけ行ける行きつく先、そこから先は運行が止まっている広野まで行って来た。


広野は20Km圏内から外れるかどうかの場所だ。だが30Km圏には完全に入ってしまうので、震災の直後にはこの町も避難した。

幸い3月15日の巨大放射能漏れの際にはほとんどこの方向には風は吹かず、線量も高くない。町の避難は解除され、帰還の方針はとっくに決まっているはずが、実際にはなかなか帰れない人、今さら帰らない人も多い。


立派な家でも、閉め切ったままのところが、駅の周辺でもやたら目につく。


昼時についたのに、飲食店のほとんどが「準備中」の札を出したままだ。


閉店したスーパーや閉じた診療所には、ゼネコンや電機メーカーの現地事務所や作業員の基地が入っている。車は多少は行き交うが、ほとんどが業者の車か、町役場関連だ。

常磐線はいわきを過ぎると途端に不便になり、そして今はこの広野から先は運行を停止している。




それに広野には東京電力の大きな火力発電所があるが、それ以外はとくに、今後生かせる産業や雇用もなにもない。

九割が兼業農家の町だったが、今さら農業ではなかなか、安全な作物が収穫出来ても、買う人がいない。


そして東京の電気を作り続ける火力発電所だけが、モクモクと煙を上げているのが、町の中心街や、海岸の津波被災地域のどこからでも目に入る。



常磐線から海側のかなりの部分が、津波被災地域だ。かつては家があったり、農地だったところは、雑草だけが生え、茫漠たる空き地として、ただひたすら広がっている。


ここの河口の堤防や橋は、3年前の4月に『無人地帯』の撮影に来た時には、もう復旧作業が始まっていたはずだ。2012年に『…そして、春』の撮影に寄ったときも、工事は行われていた。


だが今は工事の作業員や車もまばらで、壊れたものは壊れたままだった。



真言宗のお寺の修行院は、ご住職一家は今もいわきで避難生活を続けながらお寺に通う日々だと言う。

住職の復興ブログ http://hironoshugyoin.blog.fc2.com/


地震で本堂は無事でも庫裏は大きな損害を受けたそうだが、墓石が倒れた墓地も含めて、今ではきれいに復旧されている。


帰って来ている人たちが、お墓参りと掃除をしていた。


このお寺には、戊辰戦争の広野の戦いで戦死したいわば敵方、長州藩の兵士も手厚く葬られている。その墓石は地震でかなり痛んでしまったそうだが、今はきれいに元通りにされている。

その墓地の裏では、作業員の宿舎なのだろうか、新築工事が進んでいた。


これは復興住宅なのだろうか。家も新築されている。


道路工事もあちこちで行われている。とはいえ前に来たときもこんな感じのままだったような気もするが…。


ただ工事の現場だけは、多い。

それにまだ、除染事業もある。

福一の作業に当る人も、この町に泊まる人も少なくない。


その人たちが泊まる設備が、こうやってどんどん建てられもする。

だがこうやってよそから一時的だけこの町に来る作業の人たちが増えても、地元の生活が復旧・復興するわけではない


この町をぐるぐると歩いていて、漠然とした不安に胸が押しつぶされそうになった。


このままなにも変わらないのではないか?

この町の本当の悲劇は3年前に起こったような突然の変化としてでなく、このまま緩慢と、少しずつ、この町は消えて行ってしまう、死んでしまうことなのではないか。

それでも、ここで生活する人たちを見捨てることで、“ここ以外の日本” にとっては最初からここにはなにもなかったかのように、ただ忘れて行くことが許されてしまう。


そして町の人たちは、あるいはここを離れ、あるいは老いて、いずれはいなくなるだろう。



そういう緩慢な変化を食い止めることほど、難しいことはない。「時代の流れ」のひとことで済ませば、誰も関心すら持ってくれない。


中学校の校庭に、少しだけだが、子どもたちがいた。


帰りに、いわき市の久之浜で途中下車してみた。


久之浜の海岸部は、3月11日の津波のあと大火災が発生し、こないだまでは無惨な焼け跡がまるで古代の遺跡のように姿を晒していた。


その被災した家の土台などもあらかた撤去され、盛り土も進み、ほとんどが更地になっていた。


震災の時には稲荷神社だけが、まるで奇跡のように、津波にも耐え火災も逃れた。今では唯一残ったそのお社だけが、ぽつんと立っている。

それ以外は、本当になにもなくなってしまった。


壊れた堤防のそばを、近所のおばあさんが散歩していた。毎日、つい海まで歩いて来てしまうと言う。家は奇跡的に津波被害から外れていて、ずっと住んでいるという。


「寂しくなったよね。もう誰も戻って来ないらしいよ。だからこうやって工事しても、その後はずっとこのまんまだと思うよ」

「ここはいい所だったんだけどねえ。子どもたちも最初は山の方にいたんだけど、やっぱり海のそばがいい、と言って越して来たんだけどね」


だが今では、本当になんにもなくなってしまった。瓦礫どころか家々の、生活がそこにあった痕跡すら消え、殺風景な盛り土の更地には、かつての廃墟とはまた違った寂寥感が漂う。

確かにこの、一応すべて撤去して更地になる段階に到達したところで、工事は事実上中断しているように見える。


ひたすらなにもない、なにも見えない。

過去は消え、未来を指し示すなにかも、ここにはまだない。それは今後も、永久にここに現れないのではないか、という不安が頭をよぎる。


おばあさんの言うように、ずっとこのままで終わってしまうのではないか?そして誰の目にも留らなくなるのではないか?


三年が経ち、被災地は「このまま何も変わらない」段階に入ってしまったように見える。そしてこのまま、忘れられて行くのだろうか?

駅前には、どうも市の復興ビジョンはこういうものであるらしいと示す華やかな看板が立っている。

だが絵に描けばきれいに見えるとしても、ここに示される久之浜の未来は、ものすごく薄っぺらで、空虚で、ゾッとするほどに寂しい。

0 件のコメント:

コメントを投稿